第120話 (98/07/17 ON AIR)
『なつの つばき』 作:冬乃 モミジ



母が離れで生け花を教えていたこともあってか、家(うち)に
は和菓子の貰い物がよくあった。僕は小さいころ甘いものには
目がなく、小学校から帰宅すると目敏(めざと)く見つけては
紙の紐を解(ほど)いたものだ。
「白いのがええわ」
どれにするかと見せに行くと大概(たいがい)母はそう答えた。
僕としては蓬(よもぎ)やら小豆(あずき)やら色のついたの
が食べたいわけで、願ったり叶ったりなのだが、なんでいつも
白いのなんか?と聞いてみた。
「雪みたいやからかな。奇麗で、はかのうて、あやうい感じ。
あははは、ようわかれへんか。」
ようわかれへん。と僕は答えた。パチパチと枝に鋏み(はさみ)
を入れながら正座する母に、そしたら花も白いのんが好きなん
か?と聞いてみた。
「そうや。一番好きなんは椿、中でも白うて大きい花つける白
拍子が一番好きや。」
そういえば、家(うち)の庭には椿が多い。けど白いのなんか
あったっけ。
「家(うち)にはないんよ。家(うち)にあると生徒さんに言
われたとき切らんわけにはいかんやろ。母さんあれには鋏を入
れとうないの。あ、駅前にあるわ。駅前の植え込みに一本だけ
知らんか?」
うん、知らん。そうか、そしたら母さんは季節でゆうたら冬が
好きなんやな。
「いいや、母さんは夏が好き。」
え、なんで?
「夏には匂いがあるからや。あんたがプールから帰ってきたら、
プールの匂いがする。山で遊んできたら、土の匂いがする。父
さんが仕事から帰ってきたら、汗の匂いがする。海の匂いや緑
の匂いや蚊取り線香や、お隣の夕飯の匂いやら、あははは、夏
の風が色んな匂いを運んでくるんよ。今もほら、お饅頭のええ
匂いがするやろ。」
ほんまや。そしたらな、夏に庭いっぱい雪がふったら、雪の匂
いがするんかな。
「ええなぁ、そしたら母さん、嬉しいて庭に出て走り回るわ。」
そんな会話をしてから、ひと月も経っていなかった。あまりに
急な出来事に僕はうまく現実がのみこめないまま、父と二人の
生活が始まった。庭の花の手入れは、父がするようになった。
当時、駅前のロータリーの真ん中が植え込みになっていて、そ
の中に椿の木が一本あった。これが母の言っていた椿だ、と僕
は冬の間中気をつけていたが、結局、花は咲かなかった。
虫が喰っていたのかもしれない。椿じゃなかったのかもしれな
い。僕は花のことなんかよくわからないんだ。
それから、僕は学年を一つあがった。父は、日々の忙しさに気
も紛れているように見えた。そして、夏が来た。
その日、駅前を通りかかった時、それが目に入った。僕はロー
タリーを横切り柵を越えて近づいた。植え込みの椿に、花が一
つだけ咲いている。白い、大きな花だ。
よく見ようと手を伸ばしたその時、花は枝から離れた。僕は思
わずそれを受け止めた。
学校の裏手の丘は一面の芝生が伸び放題になっていた。僕はそ
こに転がって、手の中の椿を置いた。青い芝生の上で、それは
本当に白かった。僕はしばらくそれを眺めた。
母さんの椿、夏に咲いたで。
白い花の匂いがするわ。
僕は何時間もそのままその丘に転がっていた。