119話(98/07/10 ON AIR)
『待っている』 作:み群 杏子



空白。空白。空白。
私の前を、いそぐ肩が追い越していく。
いそぐ肩。いそぐ足。
わらい声。ぴくん。立ち止まる。あるく。遠ざ
かる。

男がいる。本日閉店のパチンコ屋の前に、じっ
と立って。
ねえ、何してるの?間抜けな顔。きっと、落
ちこぼれの諜報部員だ。忍び込む部屋を、思い
出せないのだ。あるいは、暗号を忘れたのかも
しれない。山、川。
男がこっちを見ている。サングラスに黒いシャ
ツ。やばい。10本目のたばこで私を誘ってい
る。脇の下を汗が流れる。あ、女が来た。なん
で。おい。チェ、チェ。行っちゃった。

空白。空白。空白。
悪い交差点。悪い信号。赤、黄、青。緑色なの
に、どうして青なの?

悪い空気。悪いにおい。悪い背中。悪い人達。
ダークスーツの男があるいている。いそぎ足。
いそぐアタッシュケース。いそぐ靴。いそぐ電
話。…電話?

(電話のベルの音が聞こえる。2、3回鳴る内
に女の声に重なって消える)
(電話のベルの音が聞こえる。2、3回鳴る内
に女の声に重なって消える)
えっちゃん。え、誰?僕だよ、僕。忘れちゃ
った?ほら、小学校の時の…あ、ひょっと
して、おさむ君?学級委員で、生徒会長で、
成積一番で、かけっこ一等賞のおさむ君でしょ
う?空白。空白。空白。
追い越していく。追い越していく。追い越して
いく。人。人。人。
急ぐ駅。急ぐロータリー。急ぐバス。急いでい
る。急いでいる。バスの窓。窓に映る街。切り
取られた街。

一瞬、街が、ジグソーパズルになって、崩れて
いく。ビルのかけら。車のかけら。ショーウイ
ンドウのかけら。かけらに乗ったサンプルのオ
ムライス。ケチャップ、卵、パセリ。赤、黄、
青。パセリは、青でなくて緑。

悪い時間。悪い約束。
ばらばらになった風景を組み立てる。空に雲。
ビルにいくつもの窓。閉まった窓。開いた窓。
カーテンの色。街路樹の色。赤、黄、青。街路
樹は、青でなくて緑。ポプラ、いちょう、プラ
タナス。車道を走る車。ポルシェ。ホンダ。ス
バル。
歩道を親子連れが歩いている。あの子、小さい
頃の私に似ている。ママ、夕御飯は何?オムラ
イスよ。オムライスは、ケッチャップ、卵、パ
セリ。赤、黄、青。パセリは青でなく緑。
しりとりしようよ。スイカ、かとりせんこう、
うみ、みぞれあいす、スイカ、かとりせんこう、
うみ、みぞれあいす、スイカ、かとりせんこう、
うみ、みぞれあいす…終わらない金曜日。
回っている時間。

パズルが完成する。でも、一つ、足りない。空
の真ん中に穴が開いてしまっている。もしかし
たら、足りないかけらは、あの穴から、むこう
へ落ちていってしまったのかもしれない。向こ
うの街。私の知らないあの人の街。

夕暮れ。街に明かりがつく。ネオンが一つ、二
つ、三つ、四つ。赤、黄、青、緑。ネオンは青
も緑もある。金曜日の金色の時間。あいた穴か
ら、音もなく雨が降り始める。ぽつん。誰かが
じっとみている。心臓の音。ドキ、ドキ、ドキ
、ドキ、ドキ、ドキ、ドキ、ドキ、ドキ、ドキ
、ドキ、ドキ、ドキ、ドキ、ドキ、ドキ…

さがさなくちゃ。ジグソーパズルの残りのひと
かけらを。空の穴から、向こう側に、おっこち
てしまったひとかけら。そこにあった私の約束
。私の待ち合わせ。そこにいるあの人。
夜が近づいてくる。雨はまだ止まない。雨は、
私の上にだけ降っている。私の場所。私の小さ
な場所。たった一つのパズルの穴。幸福は、そ
こからやってくる。右へ行く人。私は行かない
。左へ行く人。私は待っている。まっすぐ、プ
レスした時間の上を、時が流れていく。突然、
私の上の雨が止む。あ、傘
遅れてごめん。待った?


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