第89話 (97/12/12 ON AIR)
『控室にて。』 作:冬乃 モミジ




椅子。よく使いこまれたメープル材の椅子。

叔母が入ってくる。叔母。父の姉。私を見て、何もいわずに笑っている。
私もちょっと笑って、鏡に向き直る。

昨日ととのえた眉を、ていねいに、くっきりとなぞり、口紅をひく。
朱色がかったクリムゾン。
髪の毛はシニヨンにまとめる。今日の為に、茶色にしていた髪
を黒く染め直した。「昔のコマーシャルの花嫁みたい。」
衣装を着るのは、叔母に手伝ってもらった。「また、大きいなったん
と違う?」「背ぇが高ぅてうらやましいわ。」叔母のいつもの口癖。
姿見に向かって立つ。横を向いたり、体だけ後ろを向けたりしていると、
叔母は手鏡を持ってきてくれる。ドレスは、落ち着いた白。ウエストから、
少しばかり膨らんで足元に向かって柔らかく降りていく。胸元と袖口に
同じ色のレース。
そして、母のパールネックレス。これも同じ色。叔母は飽きも
せずにこちらを見ている。
「似合う?」彼女はYESと答えるかわりに眉を動かして、それから、
目を細めて大きくうなづいてみせる。

〈ノックの音〉

はい。
ええかな。…俺の手袋、そっちに入ってへんか?(ドアの向こうの声)

(笑い)叔母ちゃん、小さい方の鞄に入れたってゆうたって。
〈ドアを開ける音〉

叔母は、もうすっかり顔みしりの彼を笑いながら、手袋の在り
かを教えている。…彼が、私を見て、何か言おうとして、言葉
を探す。
知らん人みたいや。
何も答えないでじっと見ていると、「しまった。」という顔になる。
自分の花嫁に向かってその言い草はないじゃないか。
「見違えたよ。」とか何か他に言い方がありそうなものだ。
そんなことを頭のなかで、くるくると考えているのが手にとるよ
うに解る。おかしい。おかしな人。ここでは、誰もかれもが言葉を
選ぶ。

叔母が彼を促して、部屋を出て行く。私はまた、椅子に腰掛けて、
窓の外を眺める。
いい天気で良かった…。

「知らない人」というのは、まんざら外れていないのかもしれない。
だって、今日の花嫁は、まだ、貴方が知らなかった頃の、小さな私が、
思い描いたものだから。宝石の名前も、生地の種類も何も知らなかった
小さな女の子が、精一杯の想像力で、つくりあげた花嫁を、そのまま
形にしたのだから。
結婚しよう。
プロポーズされた。
結婚しよう。
その時になってはじめて、理想の花嫁姿は完璧に頭のなかにあ
るのに、そのとなりにいるはずの人を、一度も想像したことが
ないのに気がついた。私は結婚したかったんじゃなくて…花嫁
になりたかっただけ?(笑)
娘さんと、結婚させてください。
彼が、挨拶に来たとき、父は案外あっさりして見えた。むしろ、
父の少し後ろに同席していた叔母の方が、うつむいてハンカチで
目を押さえたりしている。やぁーね、…色んなことを、思い出す。
彼が、私の視線を追って、…叔母を見て、…また私を見る。
彼が、すごく優しい顔をする。
プロポーズされた時よりも、この人のことを好きになる。

〈ノックの音〉

そろそろ時間。椅子から立ち上がり、…椅子、…台所に、こんな
椅子がいいな、なんてことを思う。

私は、もう一度鏡を見て、大きくひとつ息をして、扉にむかう。