第72話 (97/08/15 ON AIR)
『美知子』 作:冬乃 モミジ


その日、父さんは出張で、2泊3日の仕事を終えてクタクタになって
家(うち)に帰って、それを知りました。
母さんは、「なんなら明日の朝でもいいや」と思っていましたが、
口の端がどうしてもニンマリゆがんでしまう。「何笑うとんねん」
とちょっと不機嫌な父さんに、「子供が出来た」と告げました。
その日も父さんは出張で、でも今度は病院からの長距離電話でそれ
を知りました。まず、母さんの様子を聞いて、それから赤ん坊の
様子を聞きました。
赤ん坊は小さくて、でも、とても元気な女の子でした。
美知子という名をつけました。
美知子は小学校では、無口でおとなしい、無愛想な子供でした。
家庭訪問でも、参観日でも、「おとなしい子です」といわれて、
ちょっと不安になりました。
けれども家(うち)ではキカン気で、泣いたり、怒ったり、笑ったり。
家(うち)の中を走り回っては、襖(ふすま)や障子にぶつかって、
泣きました。
父さんに怒られて、すねて四日も口をきかなかったこともありました。
台所に立つ、母さんはとても頼もしくて、美知子は、そのそばで
大根をおろしたり、レタスをちぎったりのお手伝いが大好きでした。
窓からは、いつも、気持ちのいい風が入ってきました。
家族で旅行をしたのは、後にも先にも、一度きり。
出張の多い父さんは「家が一番ええわ」が口癖です。
美知子、小学校五年生の白浜へ、寒い季節だったけれど、天気に
めぐまれた一泊旅行です。
電車も海も、何もかも、楽しかったその夜に、父さんがすごい剣幕で
怒りだしました。母さんと美知子が、テーブルのミカンを全部
食べてしまったからでした。しようがありません、母と娘で夜道を
歩き、宿の近くの果物屋の、とうに降りたシャッターをたたいて、
ミカンを一籠買いました。 
宿に戻ると、仏頂面の父さんが、きまり悪そうに「ふん」と二人に
うなづきました。
中学一年、美知子はソフトボール部、ピッチャーです。「おとなしい子」
と言われることは、なくなりました。
中学二年、家の瓦を葺き替えました。壁もきれいに塗り替えました。
青い屋根に、白い壁。
みんなで、道に並んで、ニヤニヤ 家(うち)を見上げました。
父さんは満足気に何度か「ふん」とうなづきました。
中学三年、最後の大会、ゲームセットで一人残らず泣きました。
あんなにドロだらけになったのは、そういえば、あれが最後だっ
たでしょうか。
空は、いつも、晴れていたような気がします。
緑色のリボンのセーラー服を、美知子はとても気に入りました。
プリーツのスカートは、いつも、折り目を正しく、はきました。
この頃、父さんはただひとつ、美知子の長電話が嫌いでした。
高校を卒業して、美知子は一人暮らしをはじめました。
母さんは、ダンボールの箱に色んな物を詰めて送りました。
下着、サラダ油、絆創膏。
石鹸、タオル、ビスケット。
パジャマ、胃薬、だし昆布。
一番上には、いつも、「がんばる美知子へ」のメモが添えてありました。
母さんは、父さんからの、ハガキが嬉しかったからだと、あとで教えて
くれました。もうすぐ生まれるそんな日に、出張に行ってしまった父さん
から「がんばれ」とだけ書いたハガキが、母さんの元へ届いたのでした。
「会ってほしい人がいる」と、いつの間に大きくなった娘が言った時、
どんな気持ちがしたでしょう。
今日、美知子はお嫁にいきます。
今日、美知子さんと結婚します。
父さん 母さん ありがとう ございました。

                           終