第71話 (97/08/08 ON AIR)
『夜のイルカ』 作:み群 杏子




 夜、目を覚ますと、窓の外で誰かが私を呼
んでいた。なつかしい声。でも、誰だか思い
出せない。心臓がキュンと鳴って、急いで窓
を開ける。まんまるい月が出ていた。その月
の上で、イルカが夜の空に釣り糸を垂らして
いる。
何を釣っているの?
魚さ。決まってるだろ。
こんな所で?
穴場なんだよ、ここは。ほら、またかかった。
これで10匹目だ。
きれい。
きれいな魚っていうのは食うと不味いんだ。
美味しいのは、こっちの方さ。
もっとよく見せて。
こいよ。
まんまるい月のてっぺんに、私はイルカと
並んで腰を掛けた。
そうら、見てろ。
イルカの放った釣り糸は、ゆっくりと放物
線を描いて、夜の中に落ちていった。
そら、11匹目だ。
魚はきらきらと輝きながら、つかまえよう
とする私の手をすりぬけていく。
ちゃんと捕まえてなくちゃ逃げていっちゃうだろ。
いつか、遠い日、おなじようなことがあった。
すくってもすくっても、破れた紙の間から
こぼれていった縁日の金魚たち。いつか遠い日…
そうか、思い出した。このイルカは、遠い日の、
私の夏休みの中から抜け出してきたイルカなのだ。
まっすぐな眼差しとか、やさしいコトバとか、
そういうものだけで世の中が満たされていると
信じていたあの頃… 自分だけは、永遠に
少女のままでいられると思っていたあの頃…
なんだ、みんな逃がしちゃったの?
気がつけば、私の手の中には、一匹の魚も
残されてはいなかった。
ごめんなさい…
いいさ、また、釣ればいい。
怒ってない?
ああ。おいらだって、よくやっていること
だからね。釣った魚は3回に1回は、食べな
いで逃がしてやるんだ。それで、あの時のあ
の魚はどんな味だったのかなって、後で想像
するんだよ。想像するとさ、ドキドキするんだ。
ドキドキするって、ほら、どんな時だって、
ステキなことだからさ。どうだろ。
ええ。そうね。
でも、もう場所をかえなくちゃ。ここは、
そろそろ夜が明けてくるからね。
どこへ行くの?
いいとこ。
私も連れていってくれる?
いいよ。しっかり捕まってな。
私は、イルカのすべすべした背中に捕まって、
目を閉じる。
きっと、あそこね。
麦わら帽子をかぶって、ノースリーブのブラウス
から細い腕を出して、バーミューダーパンツを
はいたなつかしいあの夏…
あの夏から、私のイルカはいくつの夜を渡って
きたのだろうか。
トキメキとかヒメゴトとかコイとかアイとか、
そんな名前を持った魚たちを、釣っては逃がし、
逃がしては釣り…

                    END