第71話 (97/08/08 ON AIR) | ||
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『夜のイルカ』 | 作:み群 杏子 |
女 |
夜、目を覚ますと、窓の外で誰かが私を呼 んでいた。なつかしい声。でも、誰だか思い 出せない。心臓がキュンと鳴って、急いで窓 を開ける。まんまるい月が出ていた。その月 の上で、イルカが夜の空に釣り糸を垂らして いる。 |
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* | |
女 |
何を釣っているの? |
男 |
魚さ。決まってるだろ。 |
女 |
こんな所で? |
男 |
穴場なんだよ、ここは。ほら、またかかった。 これで10匹目だ。 |
女 |
きれい。 |
男 |
きれいな魚っていうのは食うと不味いんだ。 美味しいのは、こっちの方さ。 |
女 |
もっとよく見せて。 |
男 |
こいよ。 |
* | |
女 |
まんまるい月のてっぺんに、私はイルカと 並んで腰を掛けた。 |
男 |
そうら、見てろ。 |
女 |
イルカの放った釣り糸は、ゆっくりと放物 線を描いて、夜の中に落ちていった。 |
男 |
そら、11匹目だ。 |
女 |
魚はきらきらと輝きながら、つかまえよう とする私の手をすりぬけていく。 |
男 |
ちゃんと捕まえてなくちゃ逃げていっちゃうだろ。 |
女 |
いつか、遠い日、おなじようなことがあった。 すくってもすくっても、破れた紙の間から こぼれていった縁日の金魚たち。いつか遠い日… そうか、思い出した。このイルカは、遠い日の、 私の夏休みの中から抜け出してきたイルカなのだ。 まっすぐな眼差しとか、やさしいコトバとか、 そういうものだけで世の中が満たされていると 信じていたあの頃… 自分だけは、永遠に 少女のままでいられると思っていたあの頃… |
男 |
なんだ、みんな逃がしちゃったの? |
女 |
気がつけば、私の手の中には、一匹の魚も 残されてはいなかった。 ごめんなさい… |
男 |
いいさ、また、釣ればいい。 |
女 |
怒ってない? |
男 |
ああ。おいらだって、よくやっていること だからね。釣った魚は3回に1回は、食べな いで逃がしてやるんだ。それで、あの時のあ の魚はどんな味だったのかなって、後で想像 するんだよ。想像するとさ、ドキドキするんだ。 ドキドキするって、ほら、どんな時だって、 ステキなことだからさ。どうだろ。 |
女 |
ええ。そうね。 |
男 |
でも、もう場所をかえなくちゃ。ここは、 そろそろ夜が明けてくるからね。 |
女 |
どこへ行くの? |
男 |
いいとこ。 |
女 |
私も連れていってくれる? |
男 |
いいよ。しっかり捕まってな。 |
* | |
女 |
私は、イルカのすべすべした背中に捕まって、 目を閉じる。 きっと、あそこね。 麦わら帽子をかぶって、ノースリーブのブラウス から細い腕を出して、バーミューダーパンツを はいたなつかしいあの夏… あの夏から、私のイルカはいくつの夜を渡って きたのだろうか。 トキメキとかヒメゴトとかコイとかアイとか、 そんな名前を持った魚たちを、釣っては逃がし、 逃がしては釣り… END |