第66話 (96/07/04 ON AIR)
『昔、魚だったかもしれない』 作:み群 杏子


眠っているの?
いや、まぶたの裏を見ているんだ
何が見える?
目を閉じると潮が満ちてくる。男は女を抱
くたびにいつも思う。ここは海なのかもしれ  
ない。胸の鼓動が聞こえる。古代へと導く時
を刻む音。
心ぼそい時はクローゼットにあるあなたの
忘れていったお洋服の中に隠れているのよ。
外敵から身を守るためにはいくつもの関門を
つくらなくちゃいけないから。
 まず、ドアを閉める。そしてクローゼット
の扉を閉めて、最後にあなたのジャケットの
中にもぐり込むの。これで完璧。やっと安心
する。
女は美しい角度を回転させる。男はその狭
角のなかで愛を拡げる。女はシーツを拡げて
愛を包む。と、男は消える。やわらかい手触
りだけが残された寝台の女の上。
あしたの朝は何を食べたい? コーヒーに
はミルクを少し。お砂糖は入れない。三日月
パンを二つにグレープフルーツを半分。
女はあしたの朝のメニューを考えているの
だ。男があしたの朝までいないのを知ってい
て。
ねえ、あれ、何の歌だっけ? ほら、やぎ
さんが、やぎさんから来たお手紙を食べちゃ
うでしょ。黒やぎさんからだったかな、白や
ぎさんからだったかな。それで、何が書いて
あるのかわからなくなっちゃって、ご用はな
んですかって返事を書くの。でも、その返事
を貰ったやぎさんのほうも、やっぱり読まず
に食べちゃって、また、何の手紙か分からな
くなっちゃう。えいえんに何のご用か分から
ずに、でも、手紙だけはいったりきたりして
いるの。いったりきたり… あなたみたいに。
誰かと私の間を。
男はやさしい言葉を海に流す。咲くことの
ないバラを海に流す。

100%のリンゴジュースがいい? それ
とも冷たいミントティにする? くるみパン 
にジャムを少し。オムレツにはパセリをいっ
ぱい入れるわね。
誰もいない朝のテーブルに積み重ねられて
いく皿。皿はえいえんに朝と夜の間をただよ
い、女はクローゼットの中で、眠りの時を重
ねていく。
 都会の森で、乾ききった石になって女の部
屋にやってくる男はひそかに考える。昔、男
は魚だったのかもしれない。
波が揺れる。石の魚が命を蘇らせる。
しずかに、しずかに、なつかしい光景が広が
っていく。
あ、今夜は潮の香りがする。
               END