第66話 (96/07/04 ON AIR) | ||
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『昔、魚だったかもしれない』 | 作:み群 杏子 |
女 |
眠っているの? |
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男 |
いや、まぶたの裏を見ているんだ |
女 |
何が見える? |
男 |
目を閉じると潮が満ちてくる。男は女を抱 くたびにいつも思う。ここは海なのかもしれ ない。胸の鼓動が聞こえる。古代へと導く時 を刻む音。 |
女 |
心ぼそい時はクローゼットにあるあなたの 忘れていったお洋服の中に隠れているのよ。 外敵から身を守るためにはいくつもの関門を つくらなくちゃいけないから。 まず、ドアを閉める。そしてクローゼット の扉を閉めて、最後にあなたのジャケットの 中にもぐり込むの。これで完璧。やっと安心 する。 |
男 |
女は美しい角度を回転させる。男はその狭 角のなかで愛を拡げる。女はシーツを拡げて 愛を包む。と、男は消える。やわらかい手触 りだけが残された寝台の女の上。 |
女 |
あしたの朝は何を食べたい? コーヒーに はミルクを少し。お砂糖は入れない。三日月 パンを二つにグレープフルーツを半分。 |
男 |
女はあしたの朝のメニューを考えているの だ。男があしたの朝までいないのを知ってい て。 |
女 |
ねえ、あれ、何の歌だっけ? ほら、やぎ さんが、やぎさんから来たお手紙を食べちゃ うでしょ。黒やぎさんからだったかな、白や ぎさんからだったかな。それで、何が書いて あるのかわからなくなっちゃって、ご用はな んですかって返事を書くの。でも、その返事 を貰ったやぎさんのほうも、やっぱり読まず に食べちゃって、また、何の手紙か分からな くなっちゃう。えいえんに何のご用か分から ずに、でも、手紙だけはいったりきたりして いるの。いったりきたり… あなたみたいに。 誰かと私の間を。 |
男 |
男はやさしい言葉を海に流す。咲くことの ないバラを海に流す。 |
女 |
100%のリンゴジュースがいい? それ とも冷たいミントティにする? くるみパン にジャムを少し。オムレツにはパセリをいっ ぱい入れるわね。 |
男 |
誰もいない朝のテーブルに積み重ねられて いく皿。皿はえいえんに朝と夜の間をただよ い、女はクローゼットの中で、眠りの時を重 ねていく。 |
都会の森で、乾ききった石になって女の部 屋にやってくる男はひそかに考える。昔、男 は魚だったのかもしれない。 波が揺れる。石の魚が命を蘇らせる。 しずかに、しずかに、なつかしい光景が広が っていく。 |
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女 |
あ、今夜は潮の香りがする。 |
END |