第59話(97/05/16 ON AIR)
『とっておきのメニュー』 作:桐口 ゆずる



ぼく その夜、ボクは意気揚々とマンションの
ドアを開けた。実際、この不況だというの
に仕事は上手くいっている。そりゃあ、明
日にも地方へとばされることがあるかもし
れない。でも、だからといって、どれがな
んだろう。そうなれば、のんびりと働いて、
美味い水と空気を楽しめばいいのだ。靴を
脱ぎながら、さっき抱き合った女の子のこ
とを思った。可愛かったし、素直で厭味が
なかった。それは初めての男に対する演技
なのかもしれなかったが、ボクだって、礼
儀正しい紳士のふりをしていたのだから同
じようなものだ。ボクは確かにずるくなっ
た。でも、このほどほどにずるい生き方が
今の順風満帆の生活を支えているのに違い
なかった。
電話が鳴る。
ぼく ‥‥はい‥‥もしもし。
彼女 ‥‥元気?
ぼく ボクは頭がくらくらした。それは深い眠
りから無理に引っ張り出されたせいばかり
ではなかった。ネジ巻きが無理やりほどか
れるように、整理済だと思っていた記憶の
図書館がほじくりかえされたからだ。不思
議なほど、彼女の声の記憶は鮮明だった。
彼女 ‥‥どうしてた?
ぼく ‥‥生きてた。キミは?
ぼく ‥‥今、どこ?
ぼく  学生の頃、ボクは彼女とはかなく付き合
っていた。『はかなく』というのは、二人
の間に不幸があったわけではない。『きれ
た』『別れた』『深みにはまった』などと
いう当たり前の男と女の付き合いを意識し
ていなかったという意味だ。その頃のボク
は、朴訥がとりえなだけの学生であったけ
れど、自分が次々に新鮮な世界を旅してい
けると信じていた。なけなしの金をはたい
て二人で水族館に行き、ガラスに頬を寄せ
て、魚が呟く言葉を一日中聞いていたこと
もあった。彼女の下宿の小さな布団にくる
まって、トリフォーの映画について語り合
ううちに、小鳥の囀りに夜が明けたことを
教えられたこともあった。
彼女 結婚することにした。
ぼく ‥‥それはおめでとう。なにか、プレゼ
ントしなくちゃいけないね。
ぼく  ボクは『誰と?』『どんな男と?』と尋
ねるべきだったかもしれない。ただ、彼女
が遠い所へ行ってしまうような気がして、
心にもないお祝いの言葉を口にするのが精
一杯だった。不思議だった。彼女のことを
愛しつづけていると意識したこともなかっ
たし、当時も『愛』という言葉は二人の間
に似合わないものだと感じていたのだから。
ボクは自分に嘘をついていたのだろうか。
少なくとも、ボクは彼女の前で精一杯の背
伸びをしていた。彼女の問いかけに、言葉
をこね繰り回してもっともらしい言葉を用
意したし、彼女が困るような質問をつきつ
けた。彼女はきっと、ボクのことを軽薄で
はない信頼に値する男だと思ってくれてい
たのだろう。でも、それは彼女がさりげな
く見せるセンス、服の選び方や、つつまし
い下宿を飾る小物、そんなちょっとしたこ
とに、ボクがショックを受けていたからだ。
今から思えば、彼女が特別センスがよいと
は思わない。大したことではなかったはず
だ。けれど、当時のボクはそんな彼女の新
鮮な気分を精一杯に呼吸していたことはた
しかだ。
彼女 ‥‥ね、そうしてくれると嬉しいんだけ
れど。結婚のプレゼントなら、それで十分
なんだから。
ぼく あれこれ過去にこだわるうちに、彼女の
言葉はボクを素通りしてしまった。
彼女  いいのよ。アタシがそれでいいんだから。
あれはアナタがアタシにくれた最もいいも
のなんだから。
ぼく 最もいいもの? いったいボクが彼女に
なにをあげたというのだろう。もらったの
はボクのほうだったはずだ。
彼女 アタシのとっておきのメニューにするの。
ぼく とっておきのメニュー?
彼女 いやだ、忘れたの。
ぼく ボクはもう一度、くらくらとしためまい
に襲われた。重大なこと。そんな感覚だけ
がボクを襲って、それが具体的になんなの
かいっこうに思い出せなかった。そんなボ
クに彼女がしっかりと語りかけてくれた。
彼女  とっておきのメニュー
にんじん御飯との取り組みは、僕の毎日に
おだやかな勇気を与えてくれる。
なぜ?と問う方には、まず試していただき
たい。
この場合、西洋人参に限る。
ほかに大袈裟な準備は要らない。
炊き込み御飯の要領で、といだ米3、4合
に、すりおろした人参一本をまぜる。
ここで塩少々とだしの素、醤油1/3カッ
プ。
サラダ油大サジ1杯も忘れてもらっては困
る。
炊き方はこの際、炊飯器におまかせする。
間違っても圧力釜なんて必要ない。
ただ、焦らないこと。
炊きあがったら充分に蒸らす。
そして蓋を取る時が肝心である。
もわっと広がる白い湯気の中には今日の幸
福が一点に集約しているから。
すかさず、シャモジで御飯粒を転がすよう
にサクサクまぜる。
紅色に化粧した御飯粒が落ち着いたところ
で、白磁の茶碗にあっさりと盛る。
利休箸を前に、さあ、もう一度目を閉じて
みよう。
そうして、今日の白い爆発を待つのだ。
ぼく 忘れていた。確かにボクが作ったものだ
った。でも、なんのために?その時、ボク
は詩を書いたつもりだったのだろうか。そ
れとも、料理のレシピを伝えたかったのか。
そんなことさえ、曖昧なのだから、はたし
て彼女の真意は知るよしもなかった。
彼女  今もアナタは瞳を閉じて待っているの?
羨ましいな。アナタはずっとそうやってい
けるのだから。