第59話(97/05/16 ON AIR) | ||
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『とっておきのメニュー』 | 作:桐口 ゆずる |
ぼく |
その夜、ボクは意気揚々とマンションの ドアを開けた。実際、この不況だというの に仕事は上手くいっている。そりゃあ、明 日にも地方へとばされることがあるかもし れない。でも、だからといって、どれがな んだろう。そうなれば、のんびりと働いて、 美味い水と空気を楽しめばいいのだ。靴を 脱ぎながら、さっき抱き合った女の子のこ とを思った。可愛かったし、素直で厭味が なかった。それは初めての男に対する演技 なのかもしれなかったが、ボクだって、礼 儀正しい紳士のふりをしていたのだから同 じようなものだ。ボクは確かにずるくなっ た。でも、このほどほどにずるい生き方が 今の順風満帆の生活を支えているのに違い なかった。 |
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電話が鳴る。 | |
ぼく |
‥‥はい‥‥もしもし。 |
彼女 |
‥‥元気? |
ぼく |
ボクは頭がくらくらした。それは深い眠 りから無理に引っ張り出されたせいばかり ではなかった。ネジ巻きが無理やりほどか れるように、整理済だと思っていた記憶の 図書館がほじくりかえされたからだ。不思 議なほど、彼女の声の記憶は鮮明だった。 |
彼女 |
‥‥どうしてた? |
ぼく |
‥‥生きてた。キミは? |
ぼく |
‥‥今、どこ? |
ぼく |
学生の頃、ボクは彼女とはかなく付き合 っていた。『はかなく』というのは、二人 の間に不幸があったわけではない。『きれ た』『別れた』『深みにはまった』などと いう当たり前の男と女の付き合いを意識し ていなかったという意味だ。その頃のボク は、朴訥がとりえなだけの学生であったけ れど、自分が次々に新鮮な世界を旅してい けると信じていた。なけなしの金をはたい て二人で水族館に行き、ガラスに頬を寄せ て、魚が呟く言葉を一日中聞いていたこと もあった。彼女の下宿の小さな布団にくる まって、トリフォーの映画について語り合 ううちに、小鳥の囀りに夜が明けたことを 教えられたこともあった。 |
彼女 |
結婚することにした。 |
ぼく |
‥‥それはおめでとう。なにか、プレゼ ントしなくちゃいけないね。 |
ぼく |
ボクは『誰と?』『どんな男と?』と尋 ねるべきだったかもしれない。ただ、彼女 が遠い所へ行ってしまうような気がして、 心にもないお祝いの言葉を口にするのが精 一杯だった。不思議だった。彼女のことを 愛しつづけていると意識したこともなかっ たし、当時も『愛』という言葉は二人の間 に似合わないものだと感じていたのだから。 ボクは自分に嘘をついていたのだろうか。 少なくとも、ボクは彼女の前で精一杯の背 伸びをしていた。彼女の問いかけに、言葉 をこね繰り回してもっともらしい言葉を用 意したし、彼女が困るような質問をつきつ けた。彼女はきっと、ボクのことを軽薄で はない信頼に値する男だと思ってくれてい たのだろう。でも、それは彼女がさりげな く見せるセンス、服の選び方や、つつまし い下宿を飾る小物、そんなちょっとしたこ とに、ボクがショックを受けていたからだ。 今から思えば、彼女が特別センスがよいと は思わない。大したことではなかったはず だ。けれど、当時のボクはそんな彼女の新 鮮な気分を精一杯に呼吸していたことはた しかだ。 |
彼女 |
‥‥ね、そうしてくれると嬉しいんだけ れど。結婚のプレゼントなら、それで十分 なんだから。 |
ぼく |
あれこれ過去にこだわるうちに、彼女の 言葉はボクを素通りしてしまった。 |
彼女 |
いいのよ。アタシがそれでいいんだから。 あれはアナタがアタシにくれた最もいいも のなんだから。 |
ぼく |
最もいいもの? いったいボクが彼女に なにをあげたというのだろう。もらったの はボクのほうだったはずだ。 |
彼女 |
アタシのとっておきのメニューにするの。 |
ぼく |
とっておきのメニュー? |
彼女 |
いやだ、忘れたの。 |
ぼく |
ボクはもう一度、くらくらとしためまい に襲われた。重大なこと。そんな感覚だけ がボクを襲って、それが具体的になんなの かいっこうに思い出せなかった。そんなボ クに彼女がしっかりと語りかけてくれた。 |
彼女 |
とっておきのメニュー にんじん御飯との取り組みは、僕の毎日に おだやかな勇気を与えてくれる。 なぜ?と問う方には、まず試していただき たい。 この場合、西洋人参に限る。 ほかに大袈裟な準備は要らない。 炊き込み御飯の要領で、といだ米3、4合 に、すりおろした人参一本をまぜる。 ここで塩少々とだしの素、醤油1/3カッ プ。 サラダ油大サジ1杯も忘れてもらっては困 る。 炊き方はこの際、炊飯器におまかせする。 間違っても圧力釜なんて必要ない。 ただ、焦らないこと。 炊きあがったら充分に蒸らす。 そして蓋を取る時が肝心である。 もわっと広がる白い湯気の中には今日の幸 福が一点に集約しているから。 すかさず、シャモジで御飯粒を転がすよう にサクサクまぜる。 紅色に化粧した御飯粒が落ち着いたところ で、白磁の茶碗にあっさりと盛る。 利休箸を前に、さあ、もう一度目を閉じて みよう。 そうして、今日の白い爆発を待つのだ。 |
ぼく |
忘れていた。確かにボクが作ったものだ った。でも、なんのために?その時、ボク は詩を書いたつもりだったのだろうか。そ れとも、料理のレシピを伝えたかったのか。 そんなことさえ、曖昧なのだから、はたし て彼女の真意は知るよしもなかった。 |
彼女 |
今もアナタは瞳を閉じて待っているの? 羨ましいな。アナタはずっとそうやってい けるのだから。 |