第43話 (97/01/24 ON AIR)
『白いカルテ』 作:み群 杏子



今日はどうしたの?
女  彼が病状を尋ねた時、空は曇り空だった。
回転椅子に座って、彼は窓に背を向けている。
後ろに広がるにじ色の空。
見てもらいたいの。
男  ふむ。顔色は悪くない。ほっぺたが赤い
ね。
走ってきたからよ。
男  哀しそうな目をしている。恋人に振られ
たのかな。
誰も好きになれないの。
男  そりゃ、いけないね。
カルテには、なんて書くの?
男  恋愛欠乏症。
窓から見覚えのある家が見える。あれは、
私が子供の頃住んでいた家。窓に金色の
色紙で、おひさまを張りつけたのは私。あ
の頃、私の空は、いつも晴れていた。
男  じゃ、ここに座って。
もうじき、私が学校から帰ってくる時間
だ。ランドセルを置いて、窓を開ける。窓
からは公園の楠木が見える。100年はた
つだろう大きな木。
ねえ、あの楠きはどうしたのかしら。
男  さあね。さ、胸を開けて。
ええ。
私は、子どものように、ぎこちなくブラ
ウスのボタンを外す。
女  あの公園で、よく遊んだわ。私、楠木に
耳を寄せて、楠木の声を聞くのが好きだっ
た。
ふぞろいな私の胸に、彼の指が落ちてくる。
ふふ・・・ピアノでも弾いているみたい。
男  いい音がする。
調律したせいかな。おんぼろピアノでも
まだまだいい曲が弾けるのよ。
男  おんぼろじゃないさ。上等だよ。
ありがとう。
男  次は足をみようか。
女  私の、ストッキングに包まれたねじれた
足を、彼は注意ぶかく、真っすぐにのばし
いく。
長さがちがうね。
女  同じ長さにしてくれる?
男  いや、違っても気にすることはないよ。
一方が、もう一方のことを、時々、気をつ
けてやりさえすればいいんだ。無理にそろ
える必要はない。
女  自然のままがいいのね。
男  そうさ。無理に合わせることはない。
女  なんだか気が楽になってきたわ。
男  そのために、ここに来たんだろう?
女  ええ。
私が、ふぞろいも、ねじれかげんも、気
にならなくなる頃、目の前の回転椅子が回
って、彼が消える。テーブルの上の白いカ
ルテは、一枚のレシートに変わる。恋愛欠
乏症と書かれたはずの場所に、ブラジルサ
ントスと書かれた文字。レシートを取り上
て、私は店の外に出る。 冬の午後。
空は少しだけ晴れに変わっている。