第21話 (96/08/23 ON AIR) | ||
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『彼女の海』 | 作:み群 杏子 |
女 |
ある日突然思う。どこかに行きたい。どこでもいい。 こことは別のどこかへ。うだるように暑い夏の朝、 出勤の支度をしていた手をとめて、押し入れの奥から かばんを取り出す。この前に行った時のままの、 洗面用具と水着。いつもとは反対のホームに 滑り込んできた急行に飛び乗り、まどろんで 目を覚ますと海だ。はじめての町。 駅前にたった一台、止まっていたタクシーに 乗る。 「この町に、どこかに泊まれる所あるかしら。 ホテルか旅館か」 |
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男 |
「一軒だけありますよ。」 今日も、また一人やってきた。俺の客はみんなあのホテルの 部屋に、気持ちよくおさまっている。ホテルからは海が近い。 それがあそこのたった一つの売りだ。 他には何もない。 |
女 |
海の見えるホテルのベッドに座って、ふと考える。 会社に電話をしようか。受話器を取り上げ、 指が止まる。なんの為に? なにを言い訳しようというの? 受話器を戻すと電話が鳴る。 (電話のベルの音。女、受話器を外す) 「もしもし?」 |
男 |
「あの、俺、さっきのタクシーの… あんた 忘れ物したね、手帳」 女の忘れ物は、赤い革の手帳だ。たくさんの住所録。 びっしりと詰まったスケジュール。 |
女 |
「今、どこにいるの?」 |
男 |
「ホテルの前だけど」 |
女 |
「取りにいくわ」 |
男 |
「フロントに届けてあげるよ」 |
女 |
「一緒に海まで付き合ってほしいの」 |
男 |
「いいけど」 海の色は沖で二つに別れている。海流がぶつかっているのだ。 ここは、魚の種類も多い。 |
女 |
「あの部屋、青いのね。壁も天井もベッドも。 まるで、海の底にいるみたい」 |
男 |
「今日、会社休んだんだね」 |
女 |
「時々、どうしようもなく海が見たくなるの。私のなかにある 小さな海が干からびてしまうと、あわてて補給しに 行きたくなるのね。」 |
男 |
「君の海?」 |
女 |
「ほら、ここよ」 |
男 |
そっと、女の胸に耳を寄せる。いったい何人になるんだろう。 干からびた海を抱えて、この町に迷い込んで来たまま住み着いて しまった人間たち。そういう俺だって、かつてはこの町にやってきた 一人の旅行者にすぎなかったんだ。 女は、もう赤い手帳のことを忘れている。 |
女 |
「ね、聞こえる?」 |
男 |
「聞こえるよ…。波の音だ」 |