第198話 (2000/01/14 ON AIR)
『はかりきれない冬の夜(よ)のおでん』

  

作:花田 明子

登場人物
河合和雄(男)
石川綾子(女)

「有難うございました」というおでん屋のおやじ殿の声と、
ほんの少し暖かな店内の声、一瞬。がらがらと扉の閉まる音。

綾子

えーっと、いくらでした?

河合

あ、2,500円。

綾子

ああ、じゃ……。

、鞄のジッパーを開け、財布を取り出そうと、

河合

ああ、いいよ。

綾子

何でですか。

河合

と言いたいところだが……。

綾子

ええ、もちろん。

河合

あ、いや、じゃなくておごるよ。

綾子

いやいいですって。

河合

いや、そうじゃなくてさ。いやあるんだけどさ、銀行に。
でも今日はおろすの忘れてて。

綾子

ええ。だから、

河合

あ、じゃあ次の店で。

綾子

え?

河合

だってお腹すいてるだろ、まだ。

綾子

ああーっと……ええ、そうですね。はい。じゃあ次の店で。

河合

うん。

、自転車の鍵を開ける。

河合

あのさ…で、必ず返すからさ。もし次の店で足りなかったら。

綾子

ええ、分かってますよ。

河合

もう、本当にごめんな。いや、あるんだよ、銀行には。

綾子

ええ、分かりましたって。

河合

いや、本当に。

綾子

ええ。

自転車の音と二人の歩きだす音。

河合

いや、急だったからさ。

綾子

ええ。

河合

だってずっと電話止まってたでしょ。

綾子

止まってるの、気付かなくて。

河合

ああ。でもかけないの?

綾子

え?

河合

あ、いや、だって、あれってかけるときに気付くでしょ。
あれ、止まってるなぁって。

綾子

ああ…そうですよね。
ってことはここ2,3日電話かけてなかったんですね、多分。

河合

ああ。

綾子

で、今朝、バイト先で言われて分かったんですよ、
電話止まってるって。

河合

うん。

綾子

それで急いで払いに。

河合

なるほど。それでさっきかけたときはつながったんだな。

綾子

ええ。6時半に払いました、コンビニで。

河合

おう。6時20分にかけたときは「お客様の都合で
おつなぎできません」と言われた。

綾子

ああ、それはもう、かたじけないかぎりで。

河合

いやいや、あっれー。

と、数十枚のコイン(主に10円玉)が道路に落ちる音。

綾子

ああ。

の自転車も止まる。

河合

悪い悪い。

綾子

あ、あそこにも。

河合

え、どこ?

綾子

ほら、そこ。そこの、ガードレールのこうなったとこに。

河合

え、どこどこ?

綾子

あの、ほら。

河合

いや、これ、ガムだよ。ガムがくっついてるんだよ…と言おうとした)。

綾子

いや、そこじゃなくて、その、もっと右。

河合

え、右?

綾子

行き過ぎ。そのもっと、手前。

河合

手前。

綾子

そのまま、ゆっくりゆっくり移動して。

河合

移動して…ああ、あった。

綾子

はい。

河合

すんません。

綾子

(笑いつつ)何でそんなに一杯10円玉持ってるんですか。

河合

いや、意外に一杯あるんだよな。

綾子

ええ、そのようですけど。

再び、二人、歩き出す。
自転車の音。

河合

いや、タバコくらいは買えるぞ。

綾子

ええ。

河合

いやさ、だって急だったじゃない。

綾子

え?

河合

あ、いや、だってこういうことってめったにないだろ?

綾子

こういうこと?

河合

ほら、何かの集まりとかのついでに飯喰ったり、飲んだりはしたけど、
わざわざ飯喰いに…なんてのはめったにないし。

綾子

ああ。そういやそうですね。

河合

それに、俺がさそうときは、財布の中身みてからだしね。

綾子

いや、そんな私もだしますよ、そんな。

河合

いや、そうじゃなくてさ。
ほら、何かあんまり入ってないと不安だろ?こう…何となくさ。

綾子

ああ、はい。

河合

うん。だからね。

綾子

あ、いやね。何か家に帰ったら、さんからメッセージ入っててね。

河合

うん。

綾子

「あ、つながりましたか。よかったよかった。それだけです。」っていう

河合

ああ、うん。

綾子

だから、ちょっと嬉しかったので、お電話しました。

河合

うん。

綾子

(笑いつつ)でも全然大丈夫だったんですね。

河合

え?

綾子

ほら、おでん屋さん。

河合

ああ。おい、全然大丈夫だったぞ。

綾子

ね。

河合

だってビール1本に。おでんを…いくつ喰ったっけ?

綾子

えーと最初にこんにゃくとがんもとごぼ天と。

河合

ロールキャベツね。

綾子

ああ、そうそう。で、そのあと、ちくわを2本と大根とじゃがいもだから。

河合

よく覚えてるな。

綾子

ええ。何せ私も落ち着かなかったので。

河合

だよなぁ。財布の中身が不安だと、やっぱりなぁ。

綾子

何か、考え考え食べるって感じでしたね。

河合

うん。ってことはだよ。ビールがまぁ500円くらいだとして。

綾子

相場ですね。

河合

うん。残りが2,000円だから。

綾子

8個ですよ、おでん。

河合

うん。ってことは2,000割る8は、

綾子

あ、250ですね、1個。

河合

ああ。

綾子

あ、安いですね。

河合

いや、安いかどうかはあれだけど、でもまぁそこそこだな。

綾子

ええ。だって、落ち着く店でしょ?

河合

うん。本当にちゃんとしてるしね、店も。店のおじさんも。

綾子

そう。落ち着く雰囲気だし。

河合

うん、まぁでも落ち着かなかったけどね。

綾子

(ニヤリとしつつ)ええ。まぁそれはこちらの事情ってことで。

河合

まぁな。

綾子

ええ。すいません。リサーチ不足で。

河合

いやいや…。

綾子

でもメニューに値段が書いてないんですもんね。あせった。

河合

いやいや。でも前に払ったときのことは覚えてないの?

綾子

ああ……いや昔OLやってたときの先輩と行ったんですよ。
だから、石川はいくらでいいよ、みたいな感じだったから。
目安がどうも……。

河合

ああ、なるほどね。

綾子

ええ、それにちょっと酔っぱらってて

河合

え、また、酔ったの。

綾子

ああ……はい。すいません。

河合

いや、まぁいいけど。

綾子

いや、あれから気を付けてますよ。

河合

本当かよ。

綾子

ええ。覚えてられなくなるまでは飲みますまいと。

河合

よく言うよ。

綾子

(笑いつつ)いや、本当にあれからは気を付けてますよ。

河合

今にとんでもない目に合うぞ、お前。

綾子

何ですか、とんでもない目って。

河合

いや……いや石川と飲むやつってさ…、ねぇその先輩って男?

綾子

え?

河合

その、前の会社の先輩。今のおでん屋で飲んだっていう。

綾子

ああ…ええ、そうです。

河合

ほら。

綾子

え、何ですか?

河合

だからお前と飲んでる男は……その何だ?いい奴が多いってこと。

綾子

ああ。そうですね。みんな親切ですよ。

河合

(あきれつつ)親切?

綾子

ええ、みんなすごく親切です。

河合

あのなぁ。

綾子

はい?

河合

いいよ。別に。

綾子

ああ、はい。

しばし、自転車を押している音。
その横を歩く。
しばし無言。

綾子

でも3ヵ月以上前なんですね。

河合

え?

綾子

あの……ほら、あれから。

河合

ああ。

綾子

あのときはまだ夏だったから。

河合

ああ…うん。

綾子

ええ。

河合

うん。

綾子

もう、すっかり…季節変わっちゃって。

河合

うん。石川と見た月も、もうすっかり冬の月ですわな。

綾子

……はい。

また、二人、しばし歩く。

綾子

それ、似合いますね。

河合

え?

綾子

その、ダウン。赤の。

河合

あ、そう?似合う?

綾子

うん。

河合

それはそれは…いや、悪いもんじゃないんだけどさ。

綾子

ええ、すごくいい感じですよ、似合ってて。

河合

うん。いや親父のかったらあんまり金、残んなくてさ。
こんなのになった。

綾子

…え?

河合

あ、いや親父に送ったんだよ。ちょっといいやつな。

綾子

へーえ。

河合

あ、俺ね。こう見えても結構、親孝行なんだよ、まぁ見えないだろうけど。

綾子

(笑いつつ)何も言ってませんよ。

河合

(笑いつつ)ああ、うん。

綾子

ええ。

河合

でさ、おやじに送ったら、手紙がきてな。

綾子

おっとう。

河合

何か毎日ジョンの散歩に着ていますだってさ。

綾子

へーえ。いいですね。

河合

何で。よくないよ。

綾子

どうしてですか?

河合

だって、俺はものすごーく奮発して買ったんだよ。
だから、着るなよ、犬の散歩なんかに。

綾子

(笑って)いやそれくらい毎日着てくれて、いいじゃないですか。

河合

何で。すごくいいもんなんだぞ。

綾子

ああ、おでかけ用なんですね、所謂(いわゆる)。

河合

そうそう着るなって言うの、ジョンの散歩なんかに。

綾子

(笑って)ああ。

河合

全くどいつもこいつも人の気持ちが分かってない。

綾子

(笑って)え、どいつもこいつも?

河合

(溜息をつきつつを見て)はぁー。ああ、はいはい。

綾子

え?

河合

いや…いいです。

また、しばし歩く。

綾子

優しいんですよね、本当に。

河合

え、何?

綾子

いや…あの…まぁ、さんは。

河合

何だ、そりゃ。

綾子

いや、本当に。

河合

ああ、まぁな。俺はかなり優しいぞ。
お前の言うところの…まぁ親切な。

綾子

だから多分、関わった人はみんなちょっと嬉しくなって…
でもだからどういうことなんだろうって余計に、いろいろ考えて
しまうんでしょうね、きっと。

河合

……えーと。んん?

綾子

…ちょっと距離を計りかねてしまう。

河合

え?

綾子

うん、そう。

一瞬の間
河合

それは……どういう意味だ。

綾子 え?
河合

いや…。

綾子

いや、ただ何となくそう思ったから…。

河合

いや…そうじゃなくて。

綾子

え?

河合

いや……石川、お前また前みたいに酔っ払ってないよな。

綾子

ビール2杯ですよ、酔うわけないじゃないですか。

河合

だよな。

綾子

何ですか。

河合

いや、お前の方こそ、どうしていいか分からんことを言うからさ。

綾子

え?

河合

あ、いや…。

綾子

……。

河合

……。

綾子

もしかしたら、まだふっきれてないのかもしれないですね。

河合

え?

綾子

うん、そうかもしれない。もしかしたらそうかもしれません。

河合

……ええ?

綾子

(ふいに)ねぇ、これからどこ行きます?

河合

え?

綾子

だってまだお腹すいてるでしょ?

河合

ああ…あ、うん。

綾子

なんか、気兼ねなくがんがん食べたいですね。

河合

……ああ…。

綾子

でもできたらもっとおでんが食べたい気も、

河合

だったらうち来るか。

綾子

え?

河合

いや、コンビニでおでん買ってさ。うちすぐ近くだから。

綾子

……。

河合

いや、まぁうちじゃなくてもいいが。

綾子

いや……はい。

河合

え?

綾子

はい。

河合

うん…。

二人、微妙な距離にゆられながらの家へと向かう夜だ。

おしまい