第56話(97/04/25 ON AIR)
『龍のはなし』 作:冬乃 モミジ



リュウ?

そう、…龍、…その町の…その…坂道を登って行くと、途中から

長い長い桜並木になっていて、…

桜?

そう、…ちょうど今頃は、満開だ。並木を抜けると、突き当たりが
ペンキ屋、左に行くとあまり流行って無いスーパーがあって、その
向かいに、古ぼけたマンションが建ってる。

そこに?

そう、…203号室。2階に上がって3つ目の部屋、…6帖ほどの
板間と申し訳程度のキッチン、それにユニットバス…どうしてそん
な部屋が気に入ったのか解らない。龍は、ある年のちょうどこんな

春、その部屋に住み付いた。

リュウ…。

そう、…その部屋の住人は、…龍が初めて現れた時には、そりゃあ
驚いた。驚いたが、…驚いたのと々瞬間、すぐにその、龍の事がと
ても気に入って…

…気に入って?

そのまま一緒に暮らしはじめたんだ。…龍は部屋の中を自由に泳ぎ
まわる。住人の周り、テレビの上、…押し入れの中も、けっこう居
心地がいいらしい。夜、住人が眠ると、龍も体の中に頭をうずめる

ようにして眠るんだ。…龍はね、…体が鮮やかな青で、角は銀色、
目は、ルビーのような赤なんだ。

きれいね。

…方向を変える度に、その青い体がキラキラ光る。住人は、龍とい
る時間が好きだった。飽きもせずに、ただ床に座って長い時間、龍
を眺めている。そうしていると、とても気分がよかった。

そう。

…ある日、…住人の…友人が、部屋にやってきた。桜並木を抜けて、
古ぼけたマンションの2階へ、やってきた。呼び鈴が鳴って、住人
は、ドアを開けた。…友人を、部屋に招き入れて、少し、緊張しな
がら、こう切り出した。「この部屋には、…龍がいるんだ」

…。

龍は、…部屋の隅にいて、真直ぐにこっちを見てる。じっとこっち
を見てる。…「ほら、龍だ」と、住人は、言った。…友人は、不思
議そうな顔をして、「どこに?」と言った。…「ほら、ここ…龍だ

よ」…友人は、…「悪いけど」…。

悪いけど?

龍なんて、創造上の生き物がこの部屋のどこにいる、そんな物は見
えない。

…見えない…。

そんな事よりも、と、違う話をして、しばらくして、友人は帰って
行った。…住人は、友人を送って駅まで行き、すっかり沈んだ気持
ちで坂を登った。足取りも重かった。桜並木を…満開の桜が時折の

風に沢山の花を散らした。…並木を抜けて…ペンキ屋の前を横切り、
階段を上がって、部屋に戻った。…そしたら…

そしたら?

龍がいなくなってた。龍の姿も、龍の気配も、その部屋から消えて
いた。

消えた?

…結局、龍がその部屋に居たのは、たったの一週間だ。…消えてし
まった。

…そう。

…住人は、その後そこに何年か住んで、それから、仕事の都合で、
よそへ引っ越した。

そう…。

…住人は、今でもずっと、覚えているんだ。…その…龍の事を。

…そう。

覚えてないと、…忘れてしまうと、…龍がいたことが、なくなって
しまうから。

…そう。

それで、この話は、おしまい。

そう、…ねぇ、…どうしてそんな話を私にしたの?

え?…うん……。

ついたよ、…ここが僕の部屋だ。