| 第166話(99/06/04 ON AIR) | ||
|---|---|---|
| 『一粒の蟲』 | 作:ヒグチ ミユキ | |
![]()
| 電話のコール それと、重なり合うように一匹の蝿の羽が空気を震わす 男の部屋を思い通りに飛び回る蝿 |
|
|---|---|
| 女の声をした蝿 | ウウウウウウウン |
| 男 | もしもし、堺眼科さん?あの、ちょっと聞いてもよいですか? ええ、もちろん診察してほしいんですけど、こんな顔じゃ外出 できそうになくて…… |
| 女の声をした蝿 | ウウウウウウウン |
| 男 | あのね、今日の朝起きたら左目にね、できちゃったんですよ。 |
| 女の声をした蝿 | ウウウウウウウン |
| 男 | 卵が。 |
| 女の声をした蝿 | ウウウウウウウン |
| 男 | いいえ、めばちこじゃなくて、卵!たぶん蝿が左目に産み付け たと思うんですけど、直径5㎜くらいの半透明な粒々が左目の 下睫の生際にびっしり。こんなことってあるんですか? |
| 女の声をした蝿 | ウウウウン |
| 男 | いえ、嘘じゃなくて、信じてくださいって。本当なんですって ば。ちゃんと聞いてくださいよ。あのねぇ、悪戯電話するほど 暇じゃないよ、俺だって仕事があるのにこんなこと…… |
| 男の体にまとわりつくように飛び回る蝿 男は目で追ってしまう |
|
| 女の声をした蝿 | ウウウウンウウウウウンウウウン |
| 男 | うるさいな!あ、あの違うんです。蝿がうるさくて、もしもし? ちょっと堺さん、もしもし? |
| 一方的に電話を切られ“ツーツーツー”が空しく響く | |
| 男 | 何なんだよ。嘘じゃないのにぃ。 |
| 女の声をした蝿 | ウウウウン |
| 蝿は壁に止まって手をこすりこすり男は蝿を一睨み | |
| 男 | あの蝿。絶対にあの蝿の卵だ。だって、俺変なもの食べてない し、毎日アイボンしてるし、清潔だもん。でも、蝿がたかるっ て不潔な証拠か?…はあぁ…信じろってほうが難しいか。渕上 眼科バツ、川口眼科バツ、小林眼科バツ、堺眼科バツ、誰か信 じてくれよ、誰か… |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | あ、何だ?今の。 |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | ちょっと待てよ、もしかして増えるのか? |
| 女の声をした蝿 | プチプチピチ |
| 洗面所へ走りこんで勢い良く蛇口をひねって、鏡を見る | |
| 男 | うわあ、やっぱり増えてる。 |
| バシャバシャと洗うが、触れるとグニャッとした感触 | |
| 男 | あああ、ぶよぶよしてるし、気持ち悪いし。駄目だ、全然取れ ないし、潰れもしないし、何なんだ!この卵は! |
| 女の声をした蝿 | ウウウウウンウウウン |
| 男 | あの蝿、叩き潰してやる。 |
| 女の声をした蝿 | ウウウン |
| 男 | ちょっと待ってろよ。お前が一番嫌いな物を出してきてやるか ら。 |
| クローゼットを開けて何かを探し始める | |
| 男 | 確か、ここらへんにあったよな。あ、あったあった。見ろ、「 蝿タタキ」だ。 |
| 女の声をした蝿 | ウウン |
| 何だかちょっと怖がっているように飛ぶ | |
| 男 | 一発で潰してやる。ふん! |
| 蝿タタキを振るが空気を切り裂くだけ | |
| 男 | チッ!逃げるな。 |
| 女の声をした蝿 | ウウウウン |
| 男 | あ、そうだ、逃がさないように、 |
| 部屋の扉という扉を閉める | |
| 男 | これで密室だ、 |
| 女の声をした蝿 | ウウン |
| 男 | ここか? |
| 蝿タタキを振るが空気を切り裂くだけかろやかに飛び 回る蝿 |
|
| 女の声をした蝿 | ウウンウウン |
| 男 | 止まれよ、じっとしろ。 |
| 蝿タタキを振るが空気を切り裂くだけ男の肩をかすめ 流れるように逃げ回る |
|
| 女の声をした蝿 | ウウン |
| 男 | こっちか? |
| 蝿タタキを振るが空気を切り裂くだけまるで男を挑発 しているよう |
|
| 男 | むかつくな、チョロチョロするなよ。お前のせいで仕事休んじ ゃったじゃないか。勝手に産み付けるな、こんなものどうやっ て取ればいいんだ、よ! |
| 蝿タタキを振るが空気を切り裂くだけで、勢いあまって 男はつまずきこける |
|
| 男 | あ、うわ!いてええぇぇ。 |
| 女の声をした蝿 | フフフン |
| 男 | あれ?今、笑われたような気がした。蝿のくせに! |
| 蝿タタキを振るが空気を切り裂くだけ | |
| 女の声をした蝿 | フフフフフンフフン |
| 男 | 笑うなよ。笑うな。 |
| 蝿タタキを振るが空気を切り裂くだけ | |
| 女の声をした蝿 | ウウウウウンウウウン |
| 男 | 何やってるんだ、俺は。 |
| 蝿タタキを振るが空気を切り裂くだけ | |
| 女の声をした蝿 | ウウウウウン |
| 男 | たかが蝿相手に。 |
| 蝿タタキを振るが空気を切り裂くだけ | |
| 女の声をした蝿 | ウウウウウンウウウン |
| 男 | たかが、 |
| 蝿タタキを振るが空気を切り裂くだけ男は必死にな って蝿を追い続ける |
|
| 女の声をした蝿 | ウウウウウウンウウウウンウウウウウン |
| 男 | たかが、たかが、たかが、 |
| 蝿タタキを振るが空気を切り裂くだけもう蝿のこと しか見えていない |
|
| 女の声をした蝿 | ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウン |
| 蝿の羽音と蝿タタキを振り回す音が入り混じる、うる さいくらいに |
|
| 男 | うるさい! |
| ピタッと空気さえも動かない静けさゆっくりと部屋 中を見渡して |
|
| 男 | あれ?どこに行った?あれ?さっきまで飛んでいたのに、ど こに行った?勝手に産み付けて、勝手に居なくなるなよ。こ んなものだけ残して、振り舞わされてばっかりだ。どこに隠 れてるんだ? |
| 部屋中をひっくり返して探し出す | |
| 男 | 簟笥の隙間か?カーテンの陰?コーヒーカップの裏?どこに 行った? |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | は、また増えた。 |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | そこに隠れているのか? |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | 電気のかさ? |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | 又増えている、いい加減にしろよ。ベッドの角か? |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | 歯ブラシ、 |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | こんなもの要らないのに、全部取り除きたいのに。 |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | 写真立て、 |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | パジャマか?雑誌の間だろ? |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | JJの間か? |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | オレンジページ? |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | フラウの間か?VIVIか?こんなもの、さっさと捨てれば 良かった。 |
| 女の声をした蝿 | プチ |
| 男 | どっかの隙間から外に出たのかな? |
| 部屋の隙間を考える男 | |
| 男 | あ、郵便受けの隙間。 |
| 玄関の郵便受けからガサガサと新聞紙を取り出して | |
| 男 | ここから逃げたかも、でも、まだ新聞紙の間にいるかもしれ ない。 |
| やっきになって新聞紙を広げようとした、その時 一枚の葉書がコトンと足元に落ちる |
|
| 男 | 何だ?これ? |
| 拾い上げてみる | |
| 男 | 葉書?誰から?…あ…あいつ。 |
| 女の声をした蝿 | 「どうしていますか? 元気ですか? 私は、元気です」 |
| 男 | …何だよ、たった3行かよ。 |
| 女の声をした蝿 | モゾ |
| 男 | でも、あいつらしいか… |
| 女の声をした蝿 | モゾ |
| 男 | あ、ああ、卵が… |
| 女の声をした蝿 | モゾモゾ |
| 男 | 膨れ上がってくる。 |
| 女の声をした蝿 | モゾモゾモゾ |
| 男 | うわわぁ、どんどん膨れてる、何が生まれてくるんだ? きっと蛆虫だ。蛆虫が俺の目からいっぱい産まれてくる んだ! |
| 女の声をした蝿 | ポト |
| 男 | あ。 |
| 男の左目の卵が膨れ上がりひび割れ、そして無数 の蟲達がとめどなく頬をつたい床に転がる |
|
| 女の声をした蝿 | ボトボト |
| 男 | あ。 |
| 女の声をした蝿 | ボトボトボト |
| 男 | これ以上生まれてくるな。こんな蟲、こんな…これは… |
| 男は両手で産まれ続ける蟲達を目の奥へ押し返そ うとするが |
|
| 女の声をした蝿 | ポロリ |
| 男 | これは、蟲じゃない、どうして… |
| 女の声をした蝿 | ポロポロポロポロ |
| 男 | 止まれよ、止まれってば! …俺…おい、何泣いてるんだよ?止まってくれ。なあ、 頼むよ、止まってくれよ…とまれ… |
| 女の声をした蝿 | ポロポロポロポロポロリポロリ |
| 男 | 止まらないかなぁ。 |
| あきらめたように男の大きな溜息男はもう無理 矢理蟲達を閉じ込めることはしなかったただ あふれ出る気持ちにまかせた |
|
| 男 | 止まるまでに何日かかるだろう? |
| 女の声をした蝿 | ポロリポロリ |
| 男 | ああ… |
| 女の声をした蝿 | ポロリ |
| 男 | ああ… |
| 女の声をした蝿 | ポロリ |
| 男 | ああ、でも、何だか楽になってきた。 |
| 女の声をした蝿 | ポロリ |
| 男 | ああ、そうか、そうだったんだ。ああ、もっと早くこう すれば良かった。もっと産まれろ、俺の左目から。もっ ともっと。溜め込んでいた卵が全部無くなるまで、蟲に なって飛んで消えてなくなるまで…そしたら、あいつに 返事を書こう。 「俺も元気です。」一言で十分だろう。 |
| 閉めていた窓を勢い良く開ける | |
| 女の声をした蝿 | ポロリ |
| 男 | もっともっと、遠くまで飛んでいけ。 |
![]()
![]() |
![]() |
![]() |