中島らも氏がアル中になったのは、劇団へミステリを書き下ろそうとしたところ
書けなくて、酒の一杯でも飲めば何か閃く・・・
というのが止まらなくなったのが始まりだそうだ。
俺は酒が飲めないから書けない時は蹲るしかなく、
しかし蹲っていても何かが閃くわけもなく、ただ屍のようにベッドに横たわっていると床擦れを起こしていよいよ腰が痛くなる。
夢と現の狭間で、俺は登場人物たちが動き出すのを待っている。
けれども彼らは一向に動く気配を見せない。
彼らは幽霊のようにゆらゆらと揺れながら俯いているだけ。
雨が降り、水たまりができて、そこに雨粒が降りそそげば、水面に広がるのは、
まあるい波紋で、その延長上に彼らがいる。俺の頭の中を大きな水たまりが支配してる。子供たちの黄色く可愛い長靴がバシャバシャたまりをかけていく、水。
長靴が駆けていく音。
俺は子供達に誘われるように外へ出た。
扉の音。
テレビの野球中継の音。
「こんばんは。」
女将
「いらっしゃい。」
「いくらですか。」
女将
「420円。あーもうなにやってんだよ。」
「はい。」 (お金を出し)
女将
「ここで三振するかね?」
「え?」
女将
「野球。」
「ああ。勝ってますか?」
女将
「いんや。こりゃダメだ……あれ、お客さん、どっかで見たな。」
「そうですか。ここくるの久しぶりですけど。」
女将
「もしかしてたまに前の通り走ってる?」
「あ。趣味でランニングをしてて。」
女将
「ああ…… 」
「ここ、俺が小学生の時、200円ぐらいだった気がするんですけど。」
女将
「どこの銭湯も今こんな感じ。うちは安いぐらいだよ。
しかし、あんたすごい顔してるね?]
水の音。
鏡にガリガリに痩せこけた俺が映っている。
頬と口元には硬い髭がポツポツと生えている。
頭の中の水たまりは、なおも波紋を広げている。
目を閉じる。ぐわんぐわんと水が流れる音が木霊する。
その奥で、俺を呼ぶ声がした。
少女
「おーい。」
目を開けると鏡の向こうで少女が笑っている。
湯子
「ふふん。」
「やぁ。」
湯子
「へへ。」
「いくつ?」
湯子
「5歳。」
「名前は?」
湯子
「ゆこ。おゆのゆに、こどものこ。」
「へぇ。お父さんは?」
湯子
「んーん。あたいね。ここで生まれたの。」
湯子は、俺が髪を洗っている間、ずっと浴場を走り回っていた。
桶に尻を突っ込んでタイルを上手に滑りまわったりもした。
俺が湯につかっていると飛沫を立てながら飛び込んできて
湯子
「ここはあたいの庭。」
「鼻の穴、膨らんでるよ。」
湯子
「膨らんでないよ。」
その日以来、俺は夕方5時になると毎日銭湯へ向かった。
鏡の前で目を閉じると決まって、湯子が話しかけてくれた。
湯船に浸かる音。
「なぁ。お湯の中でおしっこしたことある?」
湯子
「えーないよー。」
「俺はこどもの頃よくしたよ。今思うと最悪の子供だったな。」
湯子
「なんでお湯の中でするの?」
「なんでだろう。たぶん楽しかったんだよ。」
湯子
「楽しいの?」
「わかんないけど。」
湯子
「は……は……は。」
「あ。おい。」
湯子
「ふへへ。」
「マジで?」
二人笑う。
湯子
「アイス食べたい。」
銭湯から出ると湯子は決まってスイカバーを選ぶ。
一生懸命、小指でチョコの種をほじくりだすのが好きだった。
一緒に食べるからうまいんじゃないか。
湯子
「あたいの好きにさして」
「また膨らんでる。鼻の穴。」
湯子
「膨らんでない。」
相変わらず脚本は書けなかった。
日が経つにつれて、鏡の向こうの湯子はどんどん成長していった。
背が高くなり、胸が膨らみ、かわいらしかった丸顔がほっそりと縦に伸びた。
唇が腫れ、尻が大きくなった。
誰もそのことに気が付いていなかった。おかしくなっているのは俺の方だった。
湯子
「背中、洗ってあげる。」
最近湯子は俺の背中を流してくれる。
不思議なことに俺は湯子に対して女を感じなかった。
どちらかというと湯子に対して父性を感じた。
父性は何かと問われれば、子供を授かったことのない身としてはよくわからない。
よくわからないがしかし、この湯子に対する愛しいような、寂しい気持ちは
語彙の貧弱な俺にとっては「父性」としか言いようがなかった。
ある日、湯子が言う。
湯子
「あたい、結婚するねん。
「いったい誰と。
湯子
「水の神様。」
「水の神様・・・」
湯子
「子供ができてん。湯と水で、ぬるま湯。」
「子供の名前は?」
湯子
「ぬるりひょん。」
「はは。」
湯子
「結婚祝い、ほしい。」
振り向くと、そこに湯子はいなかった。
野球中継の音。
女将
「あーまたかよ」。
男が暖簾をくぐる音。
女将
「そこで打たずしていつ打つのよ。お。いい湯だった?」
「はい。ちょっと上せました。」
女将
「また負けそうだよ。ほんと、どうなってんだか。なんか飲む?」
「あ。ウーロン茶ください。」
女将
「はいよ。」
「あーあの。聞きたいことがあるんですけど。」
女将
「何よ。」
「水の神様って知ってます?」
女将
「はぁ?」
「いやなんでも。」
湯子はいったいいつ水の神様に会ったのだろう。結婚式はあるのだろうか。
もしあるのなら、湯子は俺を呼んでくれるのだろうか。
呼ばれたなら何か一言祝いの言葉を贈りたいと思ったが、何も言葉が出てこなかった。
女風呂の暖簾から二人の女が出てきた。どうやら母娘のようである。
母は60代、娘は年齢不詳だった。
二人は俺の反対側のソファーに座った。娘は始終、「あー」と唸り声を上げていた。
どうやら障害があるようだった。母は娘の背中を擦りながら、真剣に野球中継を見てた。
中継が終わると母娘がロビーから帰っていく。
俺はその背中を見送った。二人とも丸い背中だった。
俺の視線に気が付いたのだろう。女将が言う。
女将
「あの娘ね、可哀そうに。昔、男湯で強く頭を打ったんだ。」
「いつの話です?」
女将
「20年前。」
俺は思い出す。小学校の帰り道、この銭湯に寄った時のことを。
鏡の向こうで子供がはしゃいでいた。突然子供の姿が消えた。足を滑らせたのだった。頭の中の波紋が、また大きく揺れた。
俺は大急ぎでスイカバーを買い、外に出た。母娘を探した。随分と探した。
けれど見つけることは出来なかった。スイカバーは溶けかけていた。
袋を破くと甘い汁がチョコレートの種と一緒に道路にしたたり落ちた。
俺は湯子の小指を想った。
小指の先は茶色く汚れていた。
終わり