- シーン1 夕方 / 病室
- ナレ
- 木枯らしをぱりぱりと潰しながら、バスが暗い森を抜けますと、氷を含んだ冷たい雨が降り始めました。
週に4回、仕事帰りに病院へ顔を出す日々が、かれこれ一年続いています。
母さんに会うためです。
- 母
- あんた、タロは帰ってきたの。
- 私
- いや。まだ帰ってきてないよ。
- 母
- タロはどこに行ったの。
- 私
- どっかで遊んでるよ。すぐ帰ってくるさ。
- 母
- あんた、タロが帰ってくるまでお風呂の栓、抜いちゃ駄目ですよ。
- 私
- うん。わかってるよ。
- 母
- タロはね。お風呂の温かい蓋の上で寝るのが好きなんだから・・・
ああ。そうだ猫探偵から電話があったかい?
- ナレ
- ほとんど何も覚えていない母さんの言葉を聞いていると、自分がそこにいないような気がしてきます。それはとても気楽な時間です。生きていく上では避けて通れない煩雑なことも、何もかもどうでもよいことのように思えてくる。
単純に仕事に疲れているだけかもしれません。もう私も今年で50です。
実際、丸椅子に座り、そのまま眠ってしまったこともあります。
- シーン2 夜 / 病院からの帰り道
- 妹
- 兄さん、最近、母さんがよくいうけど、タロって誰?
- 私
- 俺らが生まれてくる前に飼ってた猫の名前だって。叔父さんが言ってたよ。
- 妹
- 昔、いなくなっちゃったってやつ。
- 私
- そうそう。
- 妹
- 猫って死期が近づくと自分からいなくなるらしいね。
- 私
- へぇ。
- 妹
- まだどっかで生きてるのかな。
- 私
- まさか。
- 妹
- ねぇ。猫ってお風呂で寝るの。
- 私
- らしいね。
- 妹
- 内田百閒の小説にも書いてあったよ。
- 突然車の急ブレーキの音がする。何かが撥ねられる音。車が走り去る。
- シーン3 昼 / 仕事場 僕と妹の電話。
- 妹
- ちょっと兄さん、聞いてる。
- 私
- 聞いてるよ。
- 妹
- 信じてないでしょ。先生が奇跡だって。来週にも退院できるみたい。
- 私
- そんなに。
- 妹
- そうなのよ。それに記憶がね。戻ってきてるのよ。
あたしのことも、ちゃんとわかるのよ。
- 私
- それはたまたまだって。今までだってふっと昔に戻ることはあったじゃないか。
- 妹
- 違うのよ。とにかく兄さんも仕事終わったら病院にきて。
びっくりするんだから。
それにね。猫のタロが・・・
- 私
- (遮って)ごめん。今、ちょっと忙しいんだよ。あとでまた連絡するし。
- 妹
- 絶対よ。
- 私
- わかってるって。
- すると突然、母の声がする。
- シーン4 朝 / 僕と母の暮らす家
- 母
- あんた。
- 僕
- え。ああ・・・母さん。
- 母
- 朝ご飯食べていきなさい。サツマイモとワカメの味噌汁だよ。あんた好きだろ。
- 僕
- ああ・・・
- 母
- あんたはこれ食べて育ったんだよ。
私はね。誰の力も借りずに一人であんたを育てたんだ。
- 僕
- はいはい。もう聞き飽きたよ。
- 母
- そうそう。これはこの前、伊勢で買ってきた黒にんにくの漬物。
- 僕
- ニンニク?俺、今から仕事だよ。
- 母
- だからなんだい。というかだからこそだろ。力つけんと。
- 僕
- あの、一応営業職なんですけど。
- 母
- 向いてない。やめなさい。あんたに営業なんてできるわけないだろう。
- 僕
- なんだよ。朝から駄目だしかよ。
- 母
- いいから食べていきなさい。ほら。100円上げるし、これでキオスクでガム買いなさい。
- 僕
- あのさ。ガムぐらい自分で買うから。子供扱いしないでくれ。
- 母
- 何言ってんだい。あんたが子供じゃなかったら、誰が子供なんだ。
- 僕
- ていうかもう7時だし。いってきます(と立ち上がる)
- 母
- あんた、ニンニク食べていきなさい。
- 僕
- もういいから。
- 母
- ほら。ティッシュに包んであげるし。いつでも食べられるだろ。
- 僕
- いらないよ!!
- 母
- なんだい。タロはこれが凄い好きだったんだよ。
- 僕
- え?
- シーン5 昼 / 街の雑踏
- 探偵
- すいません。猫を探しているんですが。
- 僕
- はぁ。
- 探偵
- 一緒に探してくれませんか。
- 僕
- あの俺、今、仕事中でして、得意先回ってるんですよ。というか誰。
- 探偵
- 猫探偵です。猫探しの専門家です。
実は30代の女性から捜索依頼がありまして。
とても大切な猫だと仰っています。その猫がすべてであると。あ。
しぃ!!・・・見つけた。
- 猫が二人の前を通り過ぎる。
- 僕
- あ。
- 探偵
- ついてきてください。
- 二人の足音が聞こえる。
- ナレ
- 僕は猫探偵と共に茶色い毛並みの猫を追いました。猫は電車に乗りバスに乗り、公園を横切っていく。彼は猫探偵ということだけはあって、尾行はなかなか様になっていました。
猫探偵は奇妙な男でした。トレンチコートにテンガロンハットをかぶり、バニスターの黒いブーツを履いている。非常に毛深い男で、顔は髭で真っ黒に覆われています。
- 探偵
- 駄目なんですよ、剃っても剃っても生えてくる。永久脱毛。あれも効きません。
毛穴がね。イキイキとしすぎてるんです。あそこの毛だって真っ黒です。魔女が住んでいるような深い森です。ええ。でもそれがセクシーだっていう女性もいるんですよ。世の中捨てたものじゃありません。ああ。またバスに乗るようです。急いで。
- 二人はバスに乗り込む。するとそこに母がいる。
- シーン6 夕方 / 市バス
- 母
- あんた。
- 僕
- え?母さん?
- 母
- あたし、あの人と別れます。別に好きだったわけじゃない。
ただ親戚に無理やりくっつけられたお見合いだったんだから。
大丈夫。今、私の中にいるあんたはちゃんと私が育てるから安心しなさい。
- 僕
- 母さん、そのお腹・・・
- 母
- ねぇ。ところであんた、タロを見なかった。
- 僕
- タロ?タロならさっきこのバスに・・・あれ。
- 母
- このバスは深い森へ向かってるの。きっとタロはそこにいるのよ。
- 僕
- ねぇ。母さん、もう帰ろう。うちで待ってたらきっとタロは帰ってくるよ。
- 母
- 駄目なのよ。タロはね。私のすべてなんだから。
- 不吉なカラスの声が聞こえてくる。バスが停まる。
- シーン7 夜 / 深い森
- ナレ
- 市バスを降りた僕とお腹を膨らました母さんは、タロを求めて彷徨い始めます。
深く不吉な森を。
夜がやってきます。
蛹のカブトムシの衣擦れの音が地下に木霊すのが聞こえます。
- 母
- あんた、空見て。
- 僕
- え?
- ナレ
- 見上げると、空には幾千のクリーム色のオタマジャクシが発光しながら暗闇に吸い込まれていきました。
発光 一瞬 光の速さ 混じる緑はカエルの緑勢いをなくしたオタマジャクシたちは、光る驟雨となって、僕の頬を伝っていきます。
- そこへ魔女が現れる。
- 魔女
- 何かお探しですか。
- 母
- タロを探してるんです。
- 魔女
- タロ・・・ああ。タロ君。
- 母
- あなた、何か知ってるの。
- 魔女
- ええ。知ってますよ。私は森の魔女ですから。知らないことは何もないのです。
ほら。すぐそこにいるじゃないですか。あの道路の向こう側に。
- シーン8 昼 / 街 交差点。
- 僕
- (子供の声で)母さん。ほら。あそこに。猫。
- 走り出す子供の僕。
- 母
- 駄目・・・行っちゃ駄目!!
- 僕
- え?
- 突然車の急ブレーキの音がする。何かが撥ねられる音。車が走り去る。
道路の反対側から猫がやってくる。
母の足元に頬を寄せる。
- シーン9 朝 / 病室 扉から看護師1が入ってくる。
- 看護師1
- お婆ちゃん、ご飯の時間ですよー・・・あ。
- 猫
- (椅子から飛び降りる音)
- 猫は振り向くと丸椅子から降りてそのまま部屋を出ていく。
- 看護師2
- どうしたの。
- 看護師1
- え?・・・ほら!
- 看護師2
- 何。
- 看護師1
- 今、猫が・・・
- 看護師2
- 猫?
- 看護師1
- あれ・・・でもさっき確かに。
- 看護師2
- ・・・あんた夜勤明けでしょ。病院に猫がいるわけないじゃない。
- 看護師1
- あ。
- 看護師2
- なぁにそれ?
- 看護師1
- ニンニク。
- ラストシーン / 来たことのある初めての場所
- 僕
- ただいま。
- 母
- おかえりなさい。
- 僕
- 寒い。
- 母
- 冬だから。
- 僕
- 凍えそうだ。
- 母
- ・・・タロ。
- 僕
- 何。母さん。
- 母
- お風呂入れておいたよ。入ってきなさい。
- 僕
- うん
- 猫の声が聞こえた気がして・・・
- 終わり