- 楽器店のピアノ売り場。自動演奏ピアノから音楽が流れている。
- 少年
- ママ、ママ。みてみて。誰もいないのにピアノがなってるよ!
- 母
- ああ、あれは自動演奏って言って勝手に音がなるようにできてるのよ
- 少年
- ピアノが自分で動くの?
- 母
- あ、こら。触っちゃダメよ
- 523.3
- ヒソヒソヒソヒソ
- 659.3
- ヒソヒソヒソヒソ
- 784
- ヒソヒソヒソヒソ
- 少年
- ねーママ。このピアノなんか喋ってるよ
- 母
- だから自動演奏だっていってるでしょ。
ママ、お姉ちゃんのピアノみてくるから。一緒にくる?
- 少年
- えー。でも、ほんとに喋ってるもん
- 母
- はいはい。じゃあここにいてね。勝手にどっかいっちゃ嫌よ
- 少年
- はーい
- 少年はピアノに近づいていく。
- 523.3
- ヒソヒソヒソヒソ・・いや、そうは思わんな(台詞と同時にドの音がなる)
- 659.3
- ヒソヒソヒソヒソ・・どっちかっていうと(台詞と同時にミの音がなる)
- 784
- ヒソヒソヒソヒソ・・いいえ、そうですわ(台詞と同時にソの音がなる)
- 少年
- だれか中にいるの?
- 523.3/659.3/784
- ぎゃーっ!!!(ド、ミ、ソが悲鳴をあげるようにバラバラになる)
- 784
- あー驚いた!お坊ちゃん、私たちの声が聞こえるの?
- 659.3
- それは、どっちかっていうと、その
- 523.3
- 馬鹿な!わしらの声が聞こえる人間などおるわけなかろう、784
- 784
- あら、523.3は相変わらず頭が固すぎですわ
- 659.3
- それは、どっちかっていうと、その
- 523.3/784
- 659.3は、黙れ!/お黙り!
- 少年
- それってなんの数?
- 784
- ほらご覧なさい。この坊や、やっぱり聞こえてるじゃないの
- 523.3
- ふぬぬぬぬぬぬぬっ(憤る)
- 659.3
- あの、僕たちの声が聞こえるなんて、その
- 784
- お坊ちゃん。523.3なんて放っておいて、ちょっと聞いてくださらない?
- 523.3
- なんじゃと 784。こんなガキンチョに聞かせる話などないわい
- 659.3
- それは、どっちかっていうと、その
- 523.3/784
- 659.3は、黙れ!/お黙り!
- 少年
- ねぇ、さっきからなにを数えてるの?
- 784
- 数えてるわけじゃないのよ。これが私たちの名まえ
- 659.3
- いや、名まえというか、その
- 少年
- ふーん。みんなはだぁれ?
- 523.3
- お前たちが音符と呼んどる、あれじゃ
- 659.3
- いや、音符というか、その
- 少年
- おんぷって、おたまじゃくしみたいなやつのこと?
ねぇねぇピアノのなかでなにをお話ししてたの?
- 784
- 1.059463086についてですわ
- 少年
- 1.05・・なんて?
- 523.3
- 1.059463086じゃ
- 659.3
- 1.059463086、です、ええ
- 784
- 要するに平均律のことですの
- 少年
- へーきんりつ、ってなに?
- 523.3
- わしらはそいつにずっと縛られとる。何十年も何百年もな
- 659.3
- この比率のせいで僕は、常に 523.3と 784の間に、その、挟まれて並ばなければならないわけで
- 784
- あら、比率を守る事はとても大事ですわ。
だいたい 659.3は私たちと並ぶのがご不満ですの?
- 659.3
- いえ、それは、その
- 523.3
- そりゃキンキン声の784のそばに四六時中おったら、いいかげん嫌にもなるだろうて
- 784
- あら、523.3の不満を朝から晩までタラタラ聞かされるほうが溜まったもんじゃありませんわ
- 659.3
- あの、いや、そうではなくて
- 523.3
- おい、このわしがいつタラタラ不満を言った?
- 784
- あら言いましたとも。今朝だって『クリスマスのチキンは家で焼くものだ。
それが今どきの若いもんときたら手軽にケントゥで済ますとは許せん!』とか
- 523.3
- それは不満じゃない。事実だ。あんな
<ふぁーすとふーど>
で聖夜の晩餐が済むか!
- 659.3
- で、でも、美味しいですよねケントゥ・・
- 523.3
- だいたい 784こそ昨日の晩、キーキーわめいていたではないか!
『クリスマスケーキがアイスでできているなんて、あれはダップの差し金ですわ!』 とか
- 784
- あれこそ事実ですわ。スポンジのしっとり感、生クリームのふんわり感、口に入れたときに広がる甘いハーモニー。それがアイスごときに出せまして?
- 523.3
- なぁにが『甘いハーモニー』じゃ
- 784
- あら、ご高齢の方のお口に洋菓子は合いませんかしら
- 523.3
- ほほう、お前だって若作っとるだけじゃろうが。
中年太りにはくれぐれも気をつけるんじゃな
- 784
- なぁんですってぇ!
- 659.3
- で、でも、暖房のきいた部屋で食べるダップは最高ですよね・・
- 784
- ・・ 659.3、あなた一体どっちの味方ですの?
- 523.3
- そうじゃ、お前はほんとにはっきりせん奴じゃな
- 659.3
- え、いや、その
- 784
- 私知ってますのよ、あなたがコウモリだって
- 659.3
- こ、こ、こうもり??
- 784
- そう、あっちにもこっちにもいい顔をするコウモリですわ
- 523.3
- 659.3がコウモリなら、お前は蝶の仮装でもするか 784
- 784
- あら、オペラの『こうもり』で言えば蝶に扮するアイゼンシュタインは523.3、あなたですわ、この石頭!
- 523.3
- 言うたなこの!
- 659.3
- あの、お二人とも、子どもの前で争いは、その
- 784
- 659.3!そもそもあなたが優柔不断なのが悪いのでしょう?!
- 523.3
- そうじゃ、お前がどっちの味方か決めんから口論になっとるんじゃろうが!
- 523.3と 784が 659.3をポカスカと叩きだす。
- 659.3
- あいた、痛い、お二人ともやめてくださいよー、ひーっ
- 784
- こんなものじゃすまされなくってよ!
- 523.3
- そうじゃ、お前がはっきりするまでこうじゃ!こうじゃ!
- 次第に『い』に合わせてミの音が、
『えい』に合わせてソの音が、
『やぁ』に合わせてドの音がなりだす。
- 659.3
- 痛、い、い、い
- 784
- えい!
- 523.3
- やぁ!
- 659.3
- い、い、い。い、い、い
- 784
- えい!
- 523.3
- やぁ!
- 659.3
- い、い、い。い、い、い。い
- 784
- えい!
- 523.3
- やぁ!
- 659.3
- い、い、い。い、い、い。い
- 784
- えい!
- 523.3
- やぁ!
- 3人のやり取りがリズミカルに続けられるなか、少年がボソボソと歌いだす。
- 少年
- ミ、ミ、ミ。ミ、ミ、ミ。ミ、ソ、ド・・なんだっけこれ。僕知ってるよ、この歌!
- 少年はピアノの鍵盤を叩く。
- 523.3
- わぁ!小僧!勝手にさわるなー!(『なー』と同時にドーの音がなる)
- 659.3
- ひぃぃぃぃっ!なんてことするんですかー(『かー』と同時にミーの音がなる)
- 784
- まぁ、壊れたらどーするつもりですのー!(『のー』と同時にソーの音がなる)
- 順番になった音は綺麗な和音になる。
少年は順番にミミミ、ミミミ、ミソド・・と、たどたどしく鍵盤を叩く。
- 523.3、659.3、784はそれらに合わせて『わぁ!』『ひぃ!』『まぁ!』と叫ぶ。
- 母
- こら!
- 少年
- あ、ママ!
- 母が戻りピアノから離れる少年。
- 母
- もう、なに勝手に触ってるの。ダメって言ったでしょ
- 少年
- ・・はぁい
- 母
- さぁ、お姉ちゃんのクリスマスプレゼントも選べたし、次はあなたの番よ。やんちゃな私の天使君
- 少年
- ねぇ、おたまじゃくしにもサンタさんくる?
- 母
- おたまじゃくし?
- 少年
- ピアノのなかにね、おたまじゃくしいたよ
- 母
- ピアノはお池じゃないのよ
- 少年
- でもいたんだもん
- 母
- はいはい
- 少年
- みんなで並んで、すっごく仲良さそうだったよ
- 自動演奏ピアノからジングルベルの曲が流れだす。
- 少年
- ・・・あー!これ!
- 母
- ほら、はやく来ないと置いてっちゃうわよ
- 少年
- はーい。ジングルベル、ジングルベル、すずがぁなるー
- 少年は母と一緒に店を出ていく。
- 523.3
- 仲良し、じゃと・・ヒソヒソヒソヒソ
- 659.3
- どっちかっていうと・・ヒソヒソヒソヒソ
- 784
- 仲良し、ですって・・ヒソヒソヒソヒソ
- 自動演奏の音色に掻き消えていく
523.3、659.3、784の喋り声。
勿論、そのどこか楽し気な声に気づくものは誰もいない。
- END