- 女
- ここが? ・・・ そんな、まさか、うそでしょう?
地図をたよりに捜し当てた「空耳ハウスサービス」は、細長い路地の突き当たりにあった。捨てられたようなぼろぼろの屋台の上に「そらみみ」と平仮名で書いてある。
電話番号も書いていないチラシを手にして、それでも来てみようと思ったのは、「おうちあります。一戸建て。ふろつき、庭つき、家賃3万。」という信じられない内容のせいだ。おうちありますという言い方も、不動産屋らしくなくていい。それにしてもここは・・・屋台の不動産屋なんて聞いたことがない。だいたい12月の23日のこんな時期に、そんなおめでたい物件がある方が不思議なのだ。私は騙された思いで、今来た道を振り返った。そこに男が立っていた。
- 男
- さ、さ、そんな所につったってないで、うちに御用なんでしょ。遠慮せずに、どうぞ、どうぞ。
- 女
- つぎはぎだらけの蝶ネクタイに、古ぼけたタキシードといったいでたちで、男は私を屋台に押し込んだ。
- 男
- こんなかっこうで失礼しますよ。朝から知り合いの結婚式に出てきたもんでね。結婚式とはいいもんですな。ごちそうの山だ。私は魚系が好きですよ。他人は私が上等の魚なんか食わないと思ってるらしいが、いやどうして、みかけによらず鯛や平目といった上品なのが好みでね。機会があればご相伴にあずかってるというわけでして・・・
- 女
- あの・・・
- 男
- ああ、わかってます、わかってます。例のおうちでしょ。あれはあなた、もう二度とは出ないというそらみみな物件ですぞ。
- 女
- そらみみ?
- 男
- いや、みみよりな物件ともいいますかな。ま、お座りください。あれ、椅子が、と・・・椅子がない。
- 女
- あの・・・
- 男
- いや失礼。で、チラシはとちらで?
- 女
- さっき、スーパーの前で、女の人から。
- 男
- ちっ、スーパーの前か。手近な所で手をうちやがったな。
- 女
- え?
- 男
- いえいえこちらのことで。あれ、女房なんですよ。零細企業なもんでね。事務員を雇う余裕がなくて。来年早々には一人、生まれるんですよ。
- 女
- あら。
- 男
- 今、おなかの中です。まったく、最近は物価は高いし、住宅事情は悪いし住みにくい世の中ですな。
- 女
- でも、これ、本当なんですか。
- 男
- 一戸建てですよ、もっと厳密に言えば離れといいますか、母家があってそちらの方には大家が住んでいますけどね。しかし入口は別ですし、干渉はされません。なんてったって庭つきですよ。
- 女
- 駅からは近いの?
- 男
- そりゃあなた、贅沢というもんだ。駅からすぐの所に、こんな値でおうちがあるわけがない。
- 女
- 男はおうちという時、なんとも幸せそうな表情をするので、思わず笑ってしまった。
- 男
- なにがおかしいんです?
- 女
- いえ、別に。ごめんなさい。
- 男
- ところであなた、猫はお好きですかな。
- 女
- 猫?
- 男
- ええ、猫です。
- 女
- 好きです。本当は飼いたいの。でもアパートだから。
- 男
- それじゃなおさらこれに決めなくちゃ。おうちだし、庭があるし、猫には最適だ。一匹といわず、二匹、三匹飼っても大丈夫ってもんです。
- 女
- そんなにいらないわよ。
- 男
- さあ、どうかな。一匹飼えば、二匹三匹はあっと言う間です。ま、とにかく見に行きましょうや。すぐそこですよ。
- 女
- なるほど家はすぐ近くにあった。
- 男
- さ、どうぞどうぞ。
- 女
- 男は木戸を開けて、さっさと中に入っていく。古いけど感じのいい家だ。南側には縁側もある。ふーん、けっこういいじゃない。
- 男
- ここでするお昼寝は、最高だニャー。
- 女
- ニャー?
わけがわからなかった。今まで男のいた所には一匹の猫がねそべっていたのだ。そんな、まさか、うそでしょう。
- おばさん
- 誰かいるの?(猫を見て)なんだい、ぶちかい。だめだって言ってるだろ。さんまがほしけりゃ正々堂々と玄関から入ってきな。なにもやらないっていってないんだからさ。(女を見て)おや、どちらさん?
- 女
- いえ、あの、私、部屋を・・・
- おばさん
- あれ、もう?なんて早耳なんだろ。今朝、張り紙出したばかりなのにさ。
- 女
- 張り紙?
- おばさん
- 木戸に張ってあったのを見て入って来たんだろ。どう、いい庭だろ。さ、中も見てよ。
- 女
- おばさんが案内してくれた部屋は、狭いけれど清潔で気持ちがよかった。
- おばさん
- あ、しろもきたよ。
- 女
- いつのまにか猫はぶちとしろの二匹になって、縁側でじゃれあっている。ぶちの首にはつぎはぎだらけの蝶ネクタイが結んであった。
- 女
- さっきの男のネクタイと一緒じゃない。
- おばさん
- あはっ、これ、私が付けたの。のみとり用。でも、ちょっとした紳士みたいだろ。あんた、猫好きなの? だったら、飼ってもいいよ。私は自分の子供の世話だけでたくさんだけどさ。
- 女
- そらみみな物件は、はやみみな物件ってわけね。・・・私、ここに決めたわ。
- おばさん
- そうこなくっちゃ。
- 女
- 引っ越し、今日でもいいですか?
- おばさん
- 今日? そりゃまた急だね。
- 女
- だって、すごく気にいったんですもの、このおうち。
- おばさん
- そりゃ、いいけど。だけど、もう遅いよ。明日にしたら?
- 女
- ううん、まだ3時よ。大丈夫。荷物なんてほんのちょっぴりだもの。おばさん、今日からよろしくお願いします。私とこの子たちと、それから、新しい年には、もう一匹。