- もう一年をまたぐ夜、指で数えられるほどの残り時間。
夜に埋もれた月六万のアパートメント。
一階、窓のむこうには一人の住人の姿がある。
まだ、カーテンは引かれていない。
いつしか、ともに食卓を囲う仲となった一組の男女。
敷かれたままの蒲団に二人は座っている。
かけ蕎麦を片手に、
男、女と話しているようだが、人の影はないようにも見える。
- 男
- 一年前は
- 女
- 一年前も
- 男
- ここにいた?
- 女
- 枕を濡らしてね
- 男
- 泣いて?
- 女
- 涙だけじゃないのよ
- 男
- 水分の話?
- 女
- ここ
- 女、枕の一点を指す。
- 男
- どこ
- 女
- 斑(むら)ができているでしょう
- 男、白い布地に何も見つけることはできない。
- 男
- もう乾いて
- 女
- 蒸発なんてしないのよ
- 男
- それは
- 女
- 油だから
- 男
- 油
- 女
- 火に焼かれることだってできるの
- 男
- 火に?
- 女
- 火にわたしたちは
- 男
- たち?
- 女、窓を見やる。
- 女
- 外は寒かったのかしら
- 男
- とても
- 女
- どれくらい
- 男
- 身が凍えるほどに
- 女
- 凍っていない
- 男
- 言い回しだ
- 女
- わからない
- 男
- 手があかぎれるほどに
- 女
- 一年前も?
- 男
- 一年前は
- 女
- 見せて
- 誰も何も見えはしない。
零度を下回る気温と人並みの体温。
窓は、その温度差に視界を曇らせている。
- 男
- 見せられない
- 女
- 手
- 男
- 手?
- 女の出した手に、男、なかなか触れられない。
手垢をつけてしまいそうで。
- 女
- 冷たいでしょう?
- 女、男の手を握る
- 男
- でも
- 女
- 暑いでしょう?
- 男
- どうして
- 女
- 汗をかいたから
- 男
- ぼくはかいていない
- 女
- 人はかくものよ
- 男
- でもきみは
- 女
- ここは白地図
- なだらかな曲面を描くシーツの上、二人は手をかざす。
雨雲が立ち込めるように、二十万分の一の地上へ暗い影を落とす。
- 男
- はく
- 女
- 地上に雨は降っていたのか
- 男
- 地図に雨は降らない
- 女
- でも汗をかいている わたしたちは
- 男
- 二人じゃない
- 女
- ここに群(むら)ができるよりも前のこと ずっと遠くの
- 男
- 話を
- 女
- どうして二人は 追い出されたのかしら
- 男
- きいて
- 女
- きいてしまったから?
- 男
- いるのか?
- 女
- 甘い言葉に
- 男
- おい
- 女
- みせられてしまったから?
- 男
- だから
- 女
- こうして手をつないでしまったから?
- 男
- はなせ!
- 女
- あかぎれていない あなたの手
- 男の手は、あかぎれていない。
- 女
- 涙だけじゃないのよ 汗も 鼻水も 唾液も それから
- 男、女の最後の言葉を聞きとれない。
- 女
- あなたの
- 聞きとれないから、男は想像する。
- 男
- あ
- 女
- 何?
- 男
- しない
- 女
- 何を?
- 男、開けた口を塞ぐことができない。
- 男
- 何を
- その穴の底から覗くのは、女の、
- 女
- 垂らしているの
- 男、手のうちを、すべて離してしまう。
右手の食指が先だったのか、左手の薬指が先だったのか。
それとも、何本にも群れた白い――男にはわからない。
それでも、洪水のように。
器から大量の液(つゆ)が零れ落ちる。
- 男
- そば
- 女
- 床に
- 男
- 醤油
- 女
- 汚さないで
- 男
- いつから?
- 女
- 早く
- 男
- いつから 黒ずんでいた?
- 女
- 汚れが床について
- 男
- 落ちない
- 女
- 「落ちないのは何?」
- 男
- は?
- 女
- なし
- 男
- なし?
- 女
- 今日はなし
- 男、女の話がわからないでいる。
- 男
- 一年前は
- 女
- 一年前は
- 男
- ここにいた?
- 女
- したい
- 男
- したい?
- 女
- あったことに
- 男
- あった?
- 女、既に男を無視して、窓の外を見ている。
- 女
- 帰ったら
- 男
- 帰ったら
- 女
- どうするの?
- 女、一人、窓に触れる。
男よりも一回り小さく、赤みが差していた手のうち。
今日の夜(よ)も、つきない話は明かされないまま。
この「あと」は、明日(あす)の始めにも妬かれず、
ずっと、ここに焼きついていてくれるだろうか。
- 男
- 餅を焼いて
- 女
- 白い?
- 男
- そう白くて
- 女
- それから?
- 男、続きを口にしようとするが、
喉まで出かかっていた言葉を詰まらせることにする。
- 女
- 焦がすほうが好き?
- 男
- いや
- 男、否定する。
- 男
- 言葉を詰まらせているんだ
- 女、返答はない。
窓の手形は水滴に流れ、幽かに手垢が残っているばかりである。
男、一人、身を横たえる。
気温は零度を下回り、すでに雨は雪と化している。
- 幕