老人
しわくちゃだろ?あの時のお前の手は、私の人差し指をやっと握れるほどの小ささだった。
私の手も、もっと働ける、もっと働きたいと渇望するほどにゴツゴツしていた。
女性
それでもわかります…。あなたはお父さんです。
老人
お前の手は綺麗でどこか力強い手になった。仕事は何をしているんだい?
女性
ピアノを子供たちに教えています。
老人
そうか。それはよかった。
女性
いつか私のピアノを聴かせたいです。
老人
ありがとう。涙を拭きなさい。
放送の声
「間もなく面会の時間を終わります。面会者の皆様は各自の国家の指示に従ってください」
老人
母さんとは…幸せだったか?
女性
うん。私もお母さんも、お父さんがいないから幸せじゃないはずなのに…
お母さんは毎日お父さんの話を聞かせてくれました。
老人
そうか。
女性
思い出なんかじゃなくて、
まるで夜になればお父さんが家の扉を開けて笑顔で帰ってきてくれるみたいに。
写真も一枚もなかったのに、今日初めて会うあなたが、
すぐにお父さんだとわかるほどに克明に話してくれました。
だから…幸せでした。
老人
そうか。よかった。それなら本当によかった…。
放送の声
「間もなく面会の時間を終わります。面会者の皆様は各自の国家の指示に従ってください」
女性
何があったんですか?あの時。
老人
運命だけがあったんだよ。
女性
運命?
老人
私たちの国は戦争で生きれなかった。だから生きれる国に渡ろうとした。みんなが。
しかし追われて一人、また一人と捕まった。
殺された者もたくさんいた。
私も母さんも追われた。
遠くで猟犬の足音がした。
私たちは二手に分かれて逃げるしかなかった。
朝になれば昔二人が出会った楡の木の下で落ち合おうと約束をしたけど…
…私たちは落ち合う時間も、落ち合う木もないまま…
分かれた場所は国境となった。
放送の声
「面会を終わります。面会者の皆様は速やかに各自の国家の指示に従ってください」
女性
お父さん、来年も必ず面会の申請をしてくださいね。
老人
私も働けない身体になったからお土産のひとつも買ってあげれなかった。
女性
そんな事…。
放送の声
「面会者は速やかに各自の国家の指示に従いなさい」
女性
お父さん…!
老人
泣くな。母さんはピアノが好きだった。お前が泣いて母さんを求めたのは運命だった。
女性
毎日泣きます。泣いてお母さんと生きれたのなら、今度は泣いて泣いてお父さんを求めます。
老人
笑いなさい。
女性
……。
老人
明日も会えるような笑顔で。
私たちも楡の木の下で明日を笑顔で約束したんだ。
おしまい。