- 男
- 深夜2時、私は鏡の前で歯を磨いていた。
すると背中越しに女がいる。ぎょっとして振り向く。しかし誰もいない。
再び鏡をみるとやはりいる。女が。
- 女
- こんばんは。
- 男
- ……こんばんは。
- 女
- 診察の予約をしたものですが。
- 男
- ……あの。
- 女
- ええ。歯のご相談です。歯が痛むんです。どうやら虫歯のようなんです。
- 男
- ……ええ。
- 女
- 診ていただけませんか?
- 男
- そう言われましても。
- 男
- 女はぱかりと口を開く。口の中は真っ黒である。
- 男
- これはひどい。
- 女
- 随分長いこと歯を磨いてないものですから。
- 男
- なぜ磨かないのです?
- 女
- 磨かずに死んでしまったものですから。
- 男
- ……
- 女
- 人は常に何かをやり残して死んでいくんです。
先生は何かやり残したことはありませんか?
- 男
- ……それは、どういうことでしょう。
- 女
- また明日の深夜2時に参ります。
- 男
- そう言うと女は鏡の中からいなくなった。私はその日の出来事を夢だと思うことにした。
次の日、私はホテルでマキと会っていた。私は鏡の話をした。
- マキ
- 子供の頃、言われたよね。深夜2時に鏡を見ちゃいけないって。
- 男
- たぶんそれが頭に残ってたんだ。
- マキ
- それは本当に夢だったの?
- 男
- そう思うことにしたんだ。
- マキ
- 今、何時だと思う?
- 男
- ……
- マキ
- 行こうよ、洗面所。
- 男
- いや、やめておくよ。
- マキ
- なんだ。つまんない。
- 男
- そういうの、あまり好きじゃないから。
- マキ
- じゃあこのスイッチ押していい?
- 男
- え?
- マキ
- 最近のホテルはすごいんだよ。色んな機能がついてるの。
- 男
- マキがスイッチを押すと部屋中の壁がゆっくりと動き始めた。
壁が裏返っていく。部屋が鏡で覆われた。
- 女
- ねぇ。先生。歯が痛むんです。
- 男
- いつの間にかマキの顔が、あの女の顔になっていた。
鏡の向こうでは女が口をあけている。
私は女に飲み込まれながら、人生でやり残したことについて考えていた。
- 終わり