- 風が吹いて、木々の葉が擦れる音。ここは山腹の木陰。ひと組の男女
- 男1
- 集中、昆虫採集は。
- 女1
- ものすごい風ですよ。副店長、聞いてます?副店長。
- 男1
- これくらい大丈夫だよ。
- 女1
- 普通台風近付いてるのに登山誘います?副店長、副店長。
- 男1
- あ!いた。
- 女1
- 聞いてるんですか。
- 男1
- 違う、木の葉か。
- 女1
- なんでしたっけ?アカスジアゲハ?
- 男1
- 違う、アカボシヒカゲ。いるんだよ、
こういう常緑樹林の中の薄暗いカヤツリグサを求めて、
ワインレッドの鱗粉が星屑のように光る。
- 女1
- 聞いたことない。ねえ、この風立ってられないですよ。
そんな網構えたってアカボシなんやらはいないですって。
副店長。ねえ、副店長。副店長。
- 男1
- 副店長副店長言うなよ!
- 女1
- だってまだ店長じゃないんだから!
- 少しの間。
- 女1
- 何ですか、悔しいんですか。
- 男1
- 楽しい?儲かるなら、嘘ついても構わないみたいなあんな仕事。
- 女1
- 何ですか突然。
- 男1
- お金とか、会社を成長させようっていう価値観ていうかさ、
それはさ、ほとんどゆみちゃんの幸せとは関係ないんだよ。
- 少しの間。風の音に雨の音も加わる。
- 女1
- この世は嘘をつけば簡単に儲かるんですか。
- 男1
- その歯止めを考えることが、社会主義の最大の課題なんだよ。
- 女1
- また社会主義。
- 男1は女1の言葉を遮り。
- 男1
- あのさ。昔ベルリンにさ、戦争や、ヒトラーとかナチスへの反対を呼びかける
文言を葉書に書き込んで、公共の建物内にこっそり置き去りにする、
たったそれだけの素朴なレジスタンスを始めた、ひと組の夫妻がいた、
その、だから僕たちもそんな意志強い夫婦にならないか?
- 女1
- フフ。(女1は少し笑う)いいですよ。
- 男1
- 笑い事じゃない、あ、いた。ほら、こっち来てごらん。
- 女1
- え、ちょっと、そっち危ないですよ。霧も出て来たし。
- 男1
- 来てみなよ。
- 女1
- 戻ってきて、副店長。雨だって降ってきた。
- 男1
- 大丈夫さ。この茂みのもっと奥に飛んでるんだから。
- 女1
- 行っちゃダメ、アカボシヒカゲなんてほんとはいないんでしょ?
どこにも生息してないんでしょ?そんなヒカゲチョウ追いかけてどうするの。
どうなるって言うの。
- 男1
- ほら、一緒に行こう。
- 女1
- それ以上追いかけちゃダメ。お願い。副店長、私たち夫婦になるんじゃないの?
副店長。副店長―。
- 風は最も風速を上げる。風と雨音カットアウト。
- 女1
- と叫びながら、必死に私は、副店長を追いかけた、
雨の中、風を切って、霧に惑わされ、
走ってやっとの思いで、副店長の手を取った場所は、
カヤツリグサが一面に茂る薄暗い木立で、すでに雨と霧は晴れており、
そこにはワインレッドの鱗粉の、一匹のアカボシヒカゲが舞っていた。
社会への理想、を持つことがどういうことで、どういう限界があるのか、
問いかけるようにヒラヒラ舞うアカボシヒカゲを、
副店長と私は、手を繋いで、見ていた。
そして副店長は、捕虫網(ほちゅうあみ)をゆっくりアカボシヒカゲの背後に忍ばせ、勢いよく下からすくい上げた。
- 女1の独白で終わり。