- マスターの男。女の客が入ってくる。
- カラカラン
- 男
- いらっしゃ―。
- 女
- あたしのこと、知ってますか。
- 男
- え?
- 女
- あ、ごめんなさい。実はあたし、記憶喪失なんです。
- 男
- 記憶?
- 女
- 二ヶ月くらい前に、事故にあって。
- 男
- 事故って、ええ?
- 女
- あ、大したことはないんです。特にケガもなく。
- 男
- はあ。
- 女
- ただ、自分の事を憶えてなくて。
お医者さんは「徐々に思い出すだろう」って言うけど、不安で。
でもこのお店、知ってるような気がして、それで。
- 男
- なるほど。お名前は存じ上げませんが、何度も来て頂いてます。
- 女
- やっぱり。あたし、どんな人でしたか?
- 男
- どんなといわれると、その。あ、じゃあいつものヤツ、おいれしましょうか。
- 女
- お願いします!
- 男
- じゃあ――。
- 女
- 言わないで!
- 男
- え?
- 女
- オーダー聞いちゃうと、想像しちゃうから。先入観なしで飲んでみたいんです。
- 男
- わかりました。
- コポコポポ…
- 男
- おまたせいたしました。ご注文の…ほにゃららでございます。
- 女
- 飲ませて貰えますか?
- 男
- は?
- 女
- 目、つぶってますから。
- 男
- ああ、じゃあ。
- 女
- (飲む、と噴き出す)ぶはっ!何これ!
- 男
- ホット冷し飴です。
- 女
- ええ?ホット…?何ですか、それ。
- 男
- 私の実家では冷し飴をよく作るんです。それを温めることでニッキの香りがより馥郁と―。
- 女
- (遮るように)あの、
- 男
- はい?
- 女
- あたし、本当にそれ、いつも飲んでたんですか!?
- 男
- ええ。
- 女
- 大丈夫かあたし?こんなの―。
- 男・女
- 冷し飴なのにホットなんて!ホットなのに冷し飴って!名前からして意味わかんないし!
- 女
- え?
- 男
- 初めてご注文された時もそう、大きな声で。
- 女
- …言ったような気がする。
- 女、もう一度飲んでみる。
- 女
- うん、飲んだ事ある気がする。
- 男
- ――泣いてらっしゃいました。
- 女
- え?
- 男
- 最後に来られた時は男性の方と一緒で、お話して、お連れ様が先に帰られて、
その後、お客様は静かに泣いてらっしゃいました。
ホット冷し飴が、ただの冷し飴になるくらいの時間泣いて、お帰りになられました。
- 女
- ……。
- 男
- すみません、余計な事を。
- 女
- いいえ。それもあたしですから。
- 男
- …もしかしたら神様が、少しだけお休みをくれたのかもしれません。
- 女
- え?
- 男
- 少しの間だけ、辛い事を忘れていられる時間をくれたのかもしれません。
いつか思い出しても、時間がたてば痛みは薄れるものですから。
- 女
- 薄れますか?
- 男
- ええ。忘れるわけじゃなく、薄れるんです。人にはそういう時間が必要な時があるんです。だから、また新しい一歩を踏み出せる。
- 女、ホット冷し飴を飲み干して。
- 女
- ちょっと懐かしい、おばあちゃんちみたいな不思議な味。ごちそうさま。
また、来てもいいですか。これ、飲みに。
- 男
- ええ。お待ちしてます。
- 女、店を出る。
- END