- 標高3776メートル。その優美な風貌は国内のみならず国外でも
日本の象徴として広く知られている霊峰、富士山。その八合目付近。
- 男
- おえ、おえ、おええ…。
- 女
- オジサン、大丈夫? よかったらこの酸素缶使って。
- 男、酸素缶を受け取ると噴射し大きく吸い込む。
- 女
- どう? 落ち着いた?
- 男
- はい、ありがとうございます、山ガールさん。
- 女
- 山ガールさん?
- 男
- 違うんですか? ここに来る途中の小屋で聞いたんですけど、
あなたみたいな山登りにそぐわないカラフルな格好の女子を山ガールと呼ぶって。
- 女
- あのね、これでもれっきとした登山用のウエアなんだけど。
- 男
- ははあ、人は見かけによらないってことですね。
- 女
- それよりオジサンこそ、よくそんな恰好でここまできたね。
- 男
- ああ、ええまあ。
- 女
- 白衣にサンダル、お医者さんか何か?
- 男
- 医者ではないんですけど、研究者です。
- 女
- 研究者?
- 男
- 何を研究しているのかは故あって教えられないんですけど、そうですね、
現代のプロメテウス、太陽を盗んだ男、まあ、ジュリーとでも呼んでください。
- 女
- で、オジサン、少し休んだら、一緒に山降りよっか。
- 男
- 降りる?
- 女
- だって頭かなり痛いでしょ?
- 男
- そうなんですよ、少し前から。
- 女
- やっぱり。それ重度の高山病にかかってるから。早く下山した方がいいよ。
- 男
- いやいや、せっかくここまで登って来たのに。
- 女
- ちょっと急に動くと危ないよ。
- 男
- うっ。
- 女
- どうしたの?
- 男
- 眩暈が。
- 女
- だから言ってるじゃない。そうやって滑落して亡くなる人もいるんだよ。
- 男
- それでも引き返すわけにはいかないんです。
これは闘いなんです。僕と大自然の驚異との。
- 女
- 大自然の驚異?
- 男
- 正直なめてましたから、大自然のこと、この大地のこと。
お蔭で今岐路に立たされてるんですよ、僕が生涯を捧げてきた学問が。
進むのか引き返すのか。人類の英知を信ずるのか、
それとも万に一つのリスクをとるのか。
- 女
- あのね、結論はもう出てるから、引き返かえすって。
- 男
- 山ガールさん、簡単に言いますけどね。これまで投じられた予算を考えれば今更。
- 女
- いや、学問の話じゃなくて、嘔吐の症状が出るっていうのは
かなりの危険信号なんだよ。
- 男
- でもせっかくここまで登って来たのに。
- 女
- 大丈夫、またチャンスはあるから。
そういう私もね、以前この八合目で引き返したことがあるんだ。
- 男
- え?
- 女
- ちょっと個人的にいろいろあった時期で、
ふと、富士山に登ってみようって思ったんだけど、案の定、準備不足で。
オジサンみたいに山道のわきで吐いてたら親切な人に助けてもらったの。
なかなかのイケメンだったなあ。山ガールならぬ山ボーイ。
ふもとまで一緒に降りてもらって。その時はすごく悔しかったけど、
今日再チャレンジして、、私は念願叶ったから。
オジサンにもいつかまたチャンスが巡ってくるよ。
だから時には退く勇気っていうの?
- 男
- 退く勇気ですか。
- 女
- そうそう。
- 男
- …わかりました。その代わりいつかまた挑戦しますから。
いつか必ず。その時は山ガールさんも付き合ってくださいね。
- 女
- ええっ? そこまでは、ちょっと、どうかな。
- おしまい