- 絵描きの女が絵を描いている。
女の足下には首に小さな鈴をつけた猫が一匹、礼儀正しく座っている。
- 女
- どう思う?
- 猫
- そうですね。うん、いいと思いますよ
- 女
- そうかしら
- 猫
- ご納得がいかないようですね
- 女
- なにかが足らないの
- 猫
- 私の目から見れば、とても美しい風景画ですが
- 女
- 綺麗なだけならどこにでもあるもの
- 猫
- なるほど。そうですね、強いて言うのならば少し色味が足りないのかも
- 女
- 色?あなた、猫なのに色がわかるの?
- 猫
- 猫だからですよ。識別できるのは色味の強いものくらいなので。この絵にはハッキリとした色がない
- 女
- じゃあ、この絵には何色がふさわしいのかしら
- 猫
- 赤なんてどうです。赤い花。とても情熱的だ
- 女
- だめよ、赤は。脈打つ色だもの。この絵に音はいらないの
- 猫
- では青は?青い海。静かだがとても偉大だ
- 女
- 青もだめ。未知なるものは不安になるもの
- 猫
- やれやれ、では緑ならば?緑の草原。柔らかく手で触れることもできる
- 女
- 緑はもっとだめ。簡単に触れるのは危険だわ。それは毒の色かもしれないのに
- 猫
- オレンジ。オレンジの実ならどうです?あたたかく甘い果実の色だ
- 女
- そうね・・でもオレンジは夕日の色でしょ。寂しすぎるわ
- 猫
- お手上げだ。私に識別できる色はそれくらいです
- 女
- いっそのこと、黒く塗りつぶしてしまおうかしら
- 猫
- やめておきなさい。塗りつぶしたとて描いた経過は消えない
- 女
- なかったことにならない?
- 猫
- むしろ黒の下に埋もれた景色は一生残るでしょう
- 女
- なら、もう捨ててしまおうかしら
- 猫
- 捨てればきっと惜しくなりますよ
- 女
- 捨てたことが無いから分からないわ
- 猫
- それは幸せなことです
- 女
- 知らないということは幸せ?
- 猫
- 時と場合によりますが知らない幸せもありますね
- 女
- でも、ゼロからやり直す可能性を見逃すことにはならない?
- 猫
- 捨ててもゼロにはなりません。何故ならそこにその絵が置かれていた事実は消えないから
- 女
- 描き足すことも描き直すこともできないなんて
- 猫
- いいんじゃないですか。永遠に完成しない絵がこの世にひとつくらいあったって
- 女
- でもこの絵は、あともう一息で完成するのよ、きっと
- 猫は小さくあくびをする。
- 猫
- 失礼。ちょっと夜道を散歩でもしてきます。ゆっくりお考えなさい。幸い時間は飽きる程ある
- 猫は窓を開け、風が部屋に入る。猫の首の鈴がチリンと鳴る。
- 女
- 待って
- 猫
- ・・なにか?
- 女
- 月。月だわ
- 猫
- 月?
- 女
- カーテンをあけて
- 猫はカーテンを開ける。絵に月の光があたる。
- 女
- 月の光。とても繊細で何ものにもかえられない色
- 猫
- なるほど。だがこれは絵には描けない
- 女
- 雲が
- 雲で月の光が遮られてしまう。
- 猫
- おや、残念。せっかく完成しかけたのに
- 女
- ・・わたしも散歩に行こうかしら。それで、また次に月が出るのを待てばいい
- 猫
- いい考えですね。幸い時間は
- 女
- 飽きる程ある」
- END