肌寒い春の宵
町は灰色に沈み込み
人気のない通りの赤いツツジだけが
あらがうように咲き乱れていた

一葉の古い写真が
したたりおちた花弁にまぎれて
冷えた路傍に落ちている

私は、一輪のツツジとともに持ち帰り
さみしく広がった机のうえへ
今までずっとそこにあったように並べた

写真の彼女は
深い想いをうちに秘めながら
まっすぐの視線を私に投げかけてくる

濡れ羽色の豊かな髪をなでつけ
複雑な白磁の耳をひらき
馥郁たる梅の実をおもわせる頬をふくらませ
滑り落ちるような鼻梁からこぼれ落ちた
赤いしずくの唇
なめらかな首筋と優しげな鎖骨は
彼女の体が美しい曲線のアラベスクで描かれていることを告げていた

記憶の糸をたぐり寄せるうち
見覚えもないはずの彼女の輪郭が
あやとりのように結ばれ、かたち作られる

ああ、むかし
私はこの、古い面影をもつ彼女と
手を携えてたわむれたことがある

今日のような春の宵
あてどもない彷徨をたのしみながら
握り合った手と手のうちに
広大な愛情の湿原をはぐくんだのだ

我々はその湿原に家をたて
子を産み育て
老いの安楽に身をゆだねたのだった

彼女と私のはかない一生を
まぶたの裏に見た私は
子供のように泣いた

春雷がとどろき、驟雨が窓を襲い
落涙する私の嗚咽をかき消してゆく

いかづちに我にかえりながらも
記憶のあやいとが結い上げたつかのまの思い出は永遠に固定され
私の心のうちにおさめられる

それはもはや真実として
来世につながる鍵のひとつ
悔恨をもよおす前世の因果
現世を生きゆくための糧となる

机上に転がるツツジの花が春雷にふるえる

そっと拾い上げ
花片の根を口にふくんで蜜を吸う
その、ささやかな甘い蜜のあじは
彼女の唇とおなじあじ
赤いしずくとおなじなつかしさ

雨上がりの夜に飛び出し
暗闇を映す水たまりを蹴り上げ
しびれるような香りをたどり
星の粉末をまぶしたツツジにひざまずく

咲き乱れた彼女の唇を前にして
私は、大人の涙を流しながら
ツツジをつんでは蜜を吸い
何度も何度も彼女に口づけをした