- 玄関のドアを閉める音
- 女
- お邪魔します
- 男
- 買って来てくれた?
- 女
- 買って来た
- 男
- ありがとう
- 女
- 執筆は進んでる?
- 男
- 進んでない
- 女
- まあ、蛍光灯取り換えたらきっと上手く行くよ
- 男
- 上手く行ったらいいんだけど
- 女
- しかし、よく住もうと思ったよね。ブラック物件だっけ?
- 男
- 正式には、心理的瑕疵(カシ)物件って言うみたいだけど
- 女
- カシ物件?
- 男
- 欠陥のある物件
- 女
- なるほど。大きな欠陥だよね
- 男
- 俺はそういうの気にしないから
- 女
- 大家さんも内緒にしたらいいのに。何で言うかな
- 男
- 義務らしいよ。自殺と殺傷事件の場合は10年
- 女
- あの、具体的に言わないでくれる?
- 男
- いや、俺も詳しくは聞いてないから
- 女
- あ、詳しくは聞いてないんだ
- 男
- 前の住人がココで亡くなったってことだけしか聞いてない
- 女
- 具体的に言わないで
- 男
- いや、そういうのって気持ちの問題だから。気にしなければいいんだよ
- 女
- まあ、確かに、気持ちの問題だよね。実際、なにもない部屋でも、幽霊が出るって言われたら、出るような気がするもん
- 男
- そうなんだよ。だから、見ちゃうんだよ
- 女
- え、見ちゃうって…見たの?
- 男
- 見たよ
- 女
- マジで?
- 男
- ホント、俺、そういうの気にしないと思ってたけど、実際、そういうこと言われて住んでみると、そういうことになっちゃうんだよ。参ったよ
- 女
- 執筆どころじゃないよね
- 男
- 執筆どころじゃないよ。もう脚本家目指すのやめようかなって思ってるんだよ
- 女
- いやいや、それはまた別の話でしょ。幽霊見たから諦めるの?
- 男
- いや、前から諦めようとは思ってたんだけど
- 女
- え、何で?
- 男
- やっぱ、才能ないから
- 女
- え、10年くらい目指して来て、ここに来て急に才能ないって思ったの?
- 男
- いや、ずっと根拠のない自信でやって来たんだけど、やっぱ根拠ないなあと思って。ずっと蛍光灯がチカチカしてる感じ? ホラ、こんな感じに一瞬だけ点くんだけど、また消えるの。その繰り返し。いつか点かなくなるんだから、早い目に方向転換した方が身のためかなと思って
- 蛍光灯が割れる音
- 男N
- 俺はいつの間にか、蛍光灯で殴られてました。まあ、彼女の優しさだと思うようにしましょう。それより、その時、彼女が言った言葉が今でも忘れられません。『人は、なにもない部屋に幽霊を見ることが出来る。思い込みだけでゼロからイチを生み出せる。脳はそれくらいバカで偉大なんだ。人生の中で、なりたいものになることは、案外、幽霊を見ることと同じことなんじゃないか』俺は、薄れ行く意識の中で、またココをブラック物件にするわけにはいかないぞと、生きてやるぞと、絶対夢を実現してみせるぞと心に誓ったのです
- 終