- 男
- 静かな夜だった。
家でビールを飲みながら、明日のことをぼんやりと考えていた。
ドアのチャイムがなった。
扉を開けてみると小さなアライグマがそわそわしながら立っている。
- アライグマ
- こんばんは。
- 男
- こんばんは。
- アライグマ
- 急で申し訳ないんですが、台所を貸していただけませんか。
手を洗いたいのです。
- 男
- ああ。構わないけど・・・どうぞ。
- アライグマ
- 失礼します。
- 男
- アライグマは落ち着きなく蛇口から水を出すと熱心に両手をこすり始めた。
今、私の家にアライグマがいる。
- アライグマ
- ほんと助かります。誰も貸してくれなくて。
- 男
- そりゃあまぁ物騒な世の中だから。
なかなか見知らぬアライグマを部屋には入れてくれないよ。
- アライグマ
- 昔はそんなことなかったです。
扉を叩けば、誰もが笑顔で迎え入れてくれたものです。
- 男
- 公園とかで洗えばいいじゃない。蛇口、あるだろ。
- アライグマ
- いいえ。人の家で、手を洗いたいのです。手を洗いながら誰かとお話しするのが好きなのです。
- 男
- アライグマってのはそういうもの?
- アライグマ
- わかりません。少なくとも僕はそうです。手を洗うのは好きですか?
- 男
- 好きでも嫌いでもないよ。
- アライグマ
- そうですか。
- 男
- ただ仕事が終わると必ず手は洗う。
でもいくら洗っても汚れが落ちることはないね。
- アライグマ
- そんな頑固な汚れがありますか。
- 男
- うん。でもそんな汚れが愛おしかったりもする。
- アライグマ
- 僕は駄目です。汚れに愛情が持てないのです。
ちょっとでも手が汚れるとすぐに洗いたくなっちゃう。
さっきトマトときゅうりのサンドイッチを食べたんですけど、マスタードが指の間に食い込んじゃって。
- 男
- 手袋しながら食べなよ。そしたら汚れることもないさ。
- アライグマ
- 僕、手袋嫌いなんです。
- 男
- そう。奇遇だね。俺も手袋は嫌いだ。ちょっと俺の手、見てごらん。
- アライグマ
- あ。すごい。指紋、ありませんね。洗い過ぎですか?
- 男
- いや全部取ってもらったんだ。
- アライグマ
- どうして。
- 男
- 手袋が嫌いだからさ。
- アライグマ
- あなた、相当な手袋嫌いですね。
- 男
- そうだね。手袋があると感触がわからない。
- 男
- アライグマと話しながら、今日の私はやけに感傷的だなと思った。
もはや色々なことがどうでもいいような、そんな気さえしてくる。
自棄になっているのではない。ただ疲れたのだ。
熱心に手を洗うアライグマを私は見ている。
底冷えした台所に柔らかな茶色いケモノがいる。
- アライグマ
- (手を洗い終えて)どうもありがとうございます。助かりました。
- 男
- うちで良ければいつでも使ってくれ。
- アライグマ
- 本当ですか。
- 男
- ああ。本当にいつでも。君と話すのは嫌いじゃない。
- アライグマ
- そうですか。じゃあ・・・またきます。
- 男
- ああ。
- アライグマ
- おやすみなさい。
- 男
- おやすみ。
- 男
- ドアの閉まる音がすると、部屋に静けさが戻ってきた。
私の耳には、微かにアライグマが手を洗う残響が残っている。
台所に行ってみると、数本のアライグマの毛と、彼が飛ばした水滴が、食器にいくつかかかっていた。
私は蛇口を回し、手を洗い始める。
私は微笑んだ。
私を覆っていた感傷はいつの間にか消えていた。
- 終わり。