大型百貨店
紳士靴売り場
あの
はい
お客さんはいないけど、あまりぼっとしないように
すみません
暇だけどね
そうですね
…(女の横に並ぶ)
あの蛾、知ってます?
蛾?
天井の、あそこ
…ああ。大きいね
一週間前からずっといるんですよ
へえ
毎日、同じ場所にいるんです。全く動かないんですよ
死んでるんじゃない?
死んでたら、天井にくっ付いてないんじゃないですか?
じゃあ、生きてるのかな?
…生きているのか死んでいるのか分からないくらい、毎日、同じ場所にいて…楽しいんですかね
…(え?)
何で動かないんだろ…
…ココが好きなんじゃない?
…(「ココが好き」…)
革靴の匂いが好きか、ワックスの匂いが好きか、靴マニアか
…ナンすか、靴マニアの蛾って
ほうきか何かで刺激してみる?
え?
突っついたら飛んで行くんじゃない?
いや、それは。それは、やめときましょう
あの蛾も、きっと、私たちと一緒に靴を売っているんですよ。毎日、同じ時間に出勤して、同じ時間に帰って、なんでもない毎日を、じっと生きているんですよ
(察して)だったら、追い払うわけにはいかないね
…(男の横顔を見る)
そう考えると、蛾も、傍から見たらじっとしているように見えるけど、日々成長しているんだろうね。生きてるんだから、色々あるよね。ツライことも、楽しいことも
蛾にも、忘れられない一日とかあるんですかね
(笑って)あるんじゃない? それなりに
ずっとココにいても、ですか?
…今はココにいるけど、ココに来るまでは、どこかで飛んでいて、これからもどこかに飛んで行くわけでしょ? だったら…(あるんじゃない?)
…飛んで行くんですかね
…(女を気にかけている)
(蛾に)おまえは、いつまでそこにいるの
案外、分かってるのかもしれないな
…(え?)
忘れられない一日が、忘れてしまいそうな一日の積み重ねで出来ているってこと。だから今は、天井でじっとしているんじゃないかな
…(そう考えると、今の私も…いいのかな)
今日、飲みに行く?
はい
おごるから
マジですか。いいンすか
だから、仕事中に蛾を見るのはやめよう
…そうですよね
蛾にも悪いから
ですよね
…あれ?
あっ!
いない!
あれ!?
どこ行った?
…どっか行っちゃいましたね
…勝手に早退してもらっちゃ困るねえ
(笑う)
あ、お客さん
いらっしゃいませ~
いらっしゃいませ~