- 田んぼのあぜ道。土手の法面(のりめん)を老婆が一人登っている。
- お婆
- …自転車道(みち)の、南側の、田んぼを越えて、つきあたり。
- 記憶をたどるように、息を切らしながら一歩また一歩。
- お婆
- …つ、つきあたりの、この。…この、高い高い、土手を、登りきったら!
- 最後の力をふりしぼって土手を登りきる老婆。
- お婆
- …あああ。やっぱり、この景色。ああ、良かった。私、ちゃんと覚えていた。
- 遠くで男がつぶやく声が聞こえてくる。
- お爺
- …をいくつか越えて、つきあたりの、高い高い土手…
- お婆
- …え?
- お爺
- 大きな大きな「ため池」が、ふたつ。自転車道の南…。
- ぶつぶつと抑揚のない独り言が繰り返されている。
- お婆
- …あの?
- お爺
- …。
- つぶやきがぴたりと止まる。
- お婆
- …坊(ぼう)ちゃん?
- お爺
- あ、姉ちゃん。
- お婆
- 坊ちゃん。坊ちゃん?
- お爺
- 姉ちゃん。姉ちゃん。
- お婆
- どうしたの?こんな所で…。
- お爺
- どうもしない。
- お婆
- 先に行かなかったの?
- お爺
- うん。
- お婆
- 坊ちゃん、ひとりだけ?
- お爺
- うん、ひとりだけ。
- お婆
- そう。
- お婆は辺りに目をやるが、見渡す限り誰もいない。
- お婆
- 坊ちゃん、待っていてくれたの?
- お爺
- うん。
- お婆
- 姉ちゃんが迷子にならないように?
- お爺
- うん、待っていた。
- お婆
- 寒くなかった?
- お爺
- 寒くなかった。
- お婆
- ああ、でも、お手々がこんなに冷たくなって。さすってあげようね。
- 息をかけながらお爺の手を暖めるお婆。
- お婆
- …しばらく会わないうちに、坊ちゃんも、もうすっかりお爺さんですね。
- お爺
- うん、姉ちゃんもお爺さん。
- お婆
- 坊ちゃん、姉ちゃんは「お爺さん」にはなりたくないです。
- お爺
- お爺さんになりたくない?
- お婆
- 姉ちゃんは、お爺さんではなくて、お婆さんです。
- お爺
- お婆さん?
- お婆
- はい。
- お爺
- 姉ちゃんは、お婆さんになりたい。
- お婆
- え?
- お爺
- 姉ちゃんは、お婆さんになりたい。
- お婆
- いや。とりたてて「なりたい」わけではありません。
- お爺
- …うん?姉ちゃんは、お婆さんにも、なりたくない。
- お婆
- そうね。まあ、正確には、どうやら、そのような感じです。
- お爺
- 姉ちゃんは、お婆さんになるのをやめました。
- お婆
- ああ、それがいい。そうしましょう。姉ちゃんは、お婆さんをやめました。
- お爺
- やめました。
- お婆
- 坊ちゃんも、もう、お爺さんをやめました。
- お爺
- やめましたあ。
- 二人の笑い声が軽やかに響く。
- お婆
- …あ。
- お爺
- うん?
- お婆
- 見て、坊ちゃん。ほら、おてんとうさまが…。
- お爺
- うわあ、柿色。美味しそうです。
- お婆
- やっぱり、この土手の上から見る夕焼けが、一番きれいな夕焼けです。
- お爺
- はい。世界で一番きれいな夕焼けです。
- お婆
- これは坊ちゃんの記憶の中の風景?
- お爺
- うん。もう世界中のどこにもない、60年以上も前の、思い出の中の景色。
- お婆
- 私、どうしても、もう一度この夕焼けを見ておきたかった。生きてるうちにはかなわなかったけれど…。
- お爺
- 「自転車道の南側。田んぼをいくつか越えて、つきあたりの高い高い土手を登ったところに、大きな大きな「ため池」がふたつ。」
- お婆
- 風のない日の夕暮れは、池の水面(みなも)が鏡のようで、夕日の照り返しが、眩しく、眩しく、熱い。…私にとって、ここが、世界で一番美しい風景。
- お爺
- …。
- お婆
- 坊ちゃん、ありがとうね。
- お爺
- もう、大丈夫?
- お婆
- ええ、大丈夫。
- お爺
- では、おてんとうさまが西のお山に隠れる前に。
- お婆
- はい、そろそろ参るといたしましょう。
- 風がキラキラと音をたてて光の粒を運んでくる。
- お婆
- あら、なんだか身体が急に軽くなったような気がします。
- お爺
- 身体がふわふわ。このまま空も飛べそうです。
- お婆
- 坊ちゃん、持病の痛風に気をつけて!
- お爺
- 身体がふわふわ。もう痛くありません。
- お婆
- あら、本当ね。姉ちゃんのリウマチも痛くありません。
- お爺
- ふわふわ。
- お婆
- ふわふわ。
- 二人
- もう、痛くなーい。
- 二人の笑い声が軽やかに響く。
- (おしまい)