- 1932年
大雨の降る昼下がり
傘を差して歩くヘミングウェイ(33歳)
そこにナレーションが被る(※あとで登場する女性とは違う声色で)
- 女N
- 文豪ヘミングウェイ。1922年、リヨン駅にて、メモの入った鞄が盗難にあう。
その時に多くの長編・短編プロットが失われたと言われている
- リヨン駅
忘れ物センター
年配の女性が受付にいる
- 男
- すみません
- 女
- はい、ココに何を無くしたか、無くした場所、日にちとだいたいの時間、書いて
- 男
- すみません、鞄、届いてませんか?
- 女
- まず、コレに書いてちょうだい?
- 男
- …ヘミングウェイです
- 女
- はい?
- 男
- ヘミングウェイ
- 女
- 誰か知らないけど、まず書いて。忘れ物センターの規則なんで
- 男
- あの、去年までいたお姉さんは?
- 女
- ああ、先月、辞めたよ?
- 男
- 何か、聞いてませんか
- 女
- 何か?
- 男
- 私の鞄について
- 女
- 聞いてないけど? 鞄?
- 男
- はい
- 女
- どんな鞄?
- 男
- 旅行カバンです。スーツケースみたいな
- 女
- 無くしたの、いつ?
- 男
- だいたい10年前
- 女
- 10年前!?
- 男
- 毎年、届いてないか確認に来てるんですが、無ければ…
- 女
- え、何が入ってたの
- 男
- アイデアのメモです。原稿もちょっと
- 女
- 物書きさん?
- 男
- ヘミングウェイ、聞いたことありませんか?
- 女
- ヘミング…
- 男
- 『日はまた昇る』『武器よさらば』
- 女
- え?
- 男
- 私が書いた小説のタイトルです
- 女
- ああ、ごめんなさい。本読まないから。というか、あなた、メモ無くしたけど、ちゃんと書けてるんじゃない
- 男
- …フフフフ(無神経な言葉に思わず力が抜けて笑いが漏れる)
- 女
- フフフフ(男の笑いを取り違え「そうでしょ?」の意味で笑う)
- 男
- あなたには、すべてを失って、そこから這い上がって来たこのツラさが分からないでしょう。これは、例えるなら、タイプライターで1年かけて打った原稿が、一瞬にして燃えてしまうようなものです。この絶望感。虚脱感。今でも時々、心が折れそうになります。あの時、鞄を無くしてなければ…(言葉に詰まる)
- 女
- こういう言葉、ご存知かしら。ある有名な人が言ったらしいの。“今は「ないもの」について考えるときではない。「今あるもの」で、何ができるか考えるときである”その人はこうも言ってる。“人間の価値は、絶望的な敗北に直面して、いかにふるまうかにかかっている”…まあ、お客様に聞いただけなんで、誰の言葉か分かんないけど
- 男
- 私の言葉です
- 女
- え?
- 男
- 私が昔言った言葉ですよ
- 女
- あなたの…
- 男
- まさか、自分に励まされるとは(と、失笑して)どうも失礼しました。もう分かってるんです。鞄は見つからない。ココに来るのは、ただの気休めなんです(対応してくれて)どうもありがとうございました
- 女
- あ、傘
- 男
- あっ(と、照れ笑い)
- 女
- 目の前の傘だけは、忘れないで
- 大雨が降る昼下がり
傘を勢いよく広げる音
傘を差して歩くヘミングウェイ
- 女N
- 文豪ヘミングウェイ。その後『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』などの代表作を世に出し、1954年、ノーベル文学賞を受賞。それは、鞄を無くしてから32年後のことでした―
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