- 風の音。桜の花びらが散っている。
ひとりの老人と、どこか浮かない表情の若い女がベンチで話している。
- 老人
- それにしても、見事な桜の木です
- 女
- はい・・あの、それで
- 老人
- ああ、失礼。あれは・・そう、確か私がちょうどお嬢さんと同じくらいの年の頃でした。はじめて『しずんだ』のは
- 女
- その『しずむ』というのは、一体?
- 老人
- もう十の昔に潰れてしまいましたがね、ほらそこの駅前の、今は携帯ショップになっている曲がり角です。かつて、あそこは雑居ビルで1階が喫茶店になってましてね。
仕事の合間を見計らってはカランカランと鳴る扉を開け、ぶっきらぼうな店主に一杯のコーヒーを頼んだものです。それがまた薄くて不味い。でも不思議と落ち着いた。
完璧 ではないからこそ、心を和ませてくれたのかもしれません
- 女
- 少し、わかる気がします。それで?
- 老人
- おっと、どうも話しが脱線していけません。そう、いつもは決まってカウンターに座るんですが、あの日は自分でもどういう風の吹き回しか、窓際のソファーに座ってみる気になった。えんじ色の少しタバコの灰でこげたそれは、まるであつらえたかの様に、おずおずと座る私を包み込んでくれました。すると一瞬、音が消えた
- 女
- 音・・ですか?
- 老人
- 人々が行き交う足音、車のクラクション、カウンターの向こう側でコーヒーをコポコポとたてる音。それらが一気に掻き消え、心地よい空白の時が生まれました。
そして私の体は、手、足、胴体、頭と徐々にソファーに埋もれてゆき、最後にはツメの先ひとつ残らず『しずんだ』のです。
次に気がついたとき、私はビルの屋上に立っていた
- 女
- 屋上?
- 老人
- しずんだ』あとは、どうも上に上にいってしまうようでして。
それから私は時折『しずむ』ようになりました。布団に『しずんだ』ときは家の屋根に、背負ったリュックに『しずんだ』ときは山頂に。
そうそう、飼ってた猫と猫の間に『しずんだ』ときは人様のお屋敷の高い塀の上で、降りるのに苦労しましたよ
- 老人はどことなく楽しげに、くすりと笑う。
- 老人
- 信じられないという顔ですな?では、その目でご覧になるといい
- 女
- 『しずむ』のを、ですか?
- 老人
- あらゆるものに『しずんで』きたつもりでしたが、まだ『しずんで』いないものがありました。これです
- 老人が上を見上げる。風の音。桜の花びらが一層舞う。
- 女
- 桜の花びら・・
- 老人
- これだけ積もれば『しずめ』そうです
- 女
- 桜に『しずんだ』ら、どこにいくのかしら(呟く)
- 老人
- ああ、そろそろです。それでは、お嬢さん
- 女
- 待って、おじいさん。私にも『しずめ』ますか?
- 老人
- 半分はとっくに成功していますよ
- 女
- え?
- 老人
- だって、あなた最初から気分がすっかり
- 女
- あ・・ええ。そうですね
- 老人
- 委ねればいいんですよ。あとは上に上にいくだけです。いつかまた会いましょう
- 老人の声は次第に掻き消え、桜の花びらに『しずんで』いなくなってしまう。
- 女
- おじいさん?
- 女が呼びかけるも返事はない。女は桜の木を見上げる。
- 女
- ・・あとは上に上にいくだけです
- END