- 女
- 「父はクマのような野生児だった。自然の懐へ溶けるように入っていける人だった。父とならば楽々と森の奥深くへと分け入ることができた。重い荷物も平然と担ぎ、ゆるぎない歩きぶりは疲れを知らなかった。父は、どんなことが起ころうとも生きて帰ってくる、いわば“選ばれし者”だと思っていた。しかし、あっさりと逝ってしまった。下山中、道に座りこみ、そのまま帰らぬ人となった。山の神様が、父をそばに置いときたかったのかもしれないね。と母は寂しそうに笑った。
ふと、深い森の濃い酸素を、胸いっぱい吸い込みたくなり、私は父の遺した地図を頼りに山に入った」
- 突風が吹き過ぎる。
- 女
- ううう・・・死ぬかと思った。
- 男
- すげえ突風だったな。
- 女
- お父さん笑ってたでしょ。
- 男
- そりゃあお前が亀みたいだったから。
- 女
- だって吹き飛ばされたらまっさかさまだよ。
- 男
- あんなガチガチに岩にしがみついてたんじゃ、何かあっても対処できんでしょうが。
- 女
- そのとーりですね。
- 男
- ほら、まだ気を抜くなよ。
- 女
- はい。
- 男
- もうちょっと身の丈に合った山に登らないと。
- 女
- 昔、父さんと一緒に登った時は楽勝だったから、平気かと思ったのよ。
- 男
- ・・・。
- 女
- 居なくなって知る、父の偉大さってやつよ。
- 男
- お前、山、好きか?
- 女
- 好き、けど、怖い。
- 男
- 怖い。
- 女
- 何が起こるかわからないし。
- 男
- 人間のほうが、何考えてんだかわかんなくて怖いけどな。
- 女
- 父さんはそうでしょうとも。
- 男
- 母さんの不機嫌にくらべりゃ、どんな嵐もそよ風さ。
- 女
- 言いつけちゃおっと。
- 男
- ああ、頼む。
- 女
- え。
- 男
- 萎れかけてるから、ちょっと刺激してやらないと。
- 女
- 母さんのこと?
- 男
- 頼むな、いろいろと。
- 女
- ねえ・・・本望だったんだよね。
- 再び突風が吹く。
- 女
- 「父の遺した地図をトレースしていると、父をそばに感じることができた。父の軌跡をなぞらえなぞらえ歩き行けば、いつか父の場所へ、いやその先へ届くことができるのだろうか・・・。」
- 男
- もう少しで樹林帯に入る、それまで気を抜くなよ。
- 女
- はい。
- 終わってまた始まる。