- 波の音がする。真夏の砂浜。ある大学の、あるサークルの合宿。
水着姿の若い女がコンクリートの護岸に座って海を眺めている。
海からは若い男女がはしゃぐ声。
若い男がやって来る。
- 男
- あの、民宿で赤チンとバンドエイドもらってきました。
- 女
- …。
- 男
- あの、愛子さん。
- 女
- …終わった。
- 男
- え?
- 女
- 私の夏合宿。終了。
- 男
- そんな、終わったなんて。
- 女
- だってこんな足じゃ海も入られへんし、どこにも行けへん。全部、小島君せいやで。
- 男
- すみません。この合宿の間、何でも言うこと聞きますから。
- 女
- いらんわそんなん。ていうか何であんなことになったん?
- 男
- 舫いを、ちゃんと繋いでなかったんです。
- 女
- もやい?
- 男
- ボートを繋ぎ止めるロープのことです。それをちゃんと繋いでなかったからボートが動いて。
- 女
- それで私あんな股裂きみたいになったん?
- 男
- はい。
- 女
- もう死にたい。江口さんに格好悪いとこ見られてしまった。
- 男、女の足の裏の傷を見て。
- 男
- 足の裏、けっこう深く切ってますね。テトラポットの貝殻か何かで切ったんですかね。
- 女
- 何? 人ごとみたいに。誰のせいなん? ああ、素直に江口さんのボートに乗っておけばこんなことには。
- 男
- 無理だったでしょ。
- 女
- そう、何なんあの子、図々しい。私を差し置いて。
- 男
- ちょっとしみるかもしれませんよ。
- 女
- え?
- 男
- 赤チン。
- 女
- いいよ、自分で塗るから。
- 男
- いや、僕に塗らせてください。
- 女
- ああああっ。
- 女、海を指さして叫ぶ。
- 男
- そ、そんなにしみました?
- 女
- 違う、あれ。何してるんよ。
- 男
- え?
- 女
- ほら見て。テトラポットの上、江口さんとあの子、二人きりやん。
- 男
- ほんまですね。
- 女
- 他のみんなは?
- 男
- 泳いでますね。
- 女
- 何してるんよ。あかんやん二人っきりにしたら。
- 男
- 何でですか?
- 女
- ジンクスがあんねん。
- 男
- ジンクス?
- 女
- 知らんの? このサークルのジンクス。夏合宿で、二人きりの時に告白したら、必ず成功するっていう。丸山さんも田中さんも、みんなこの合宿で告白して付き合い始めてるんやから。
- 男
- そ、そうなんですか。
- 女
- 二百パーセント、絶対うまいこといくって。
- 男
- へ、へー。
- 女
- だからあかんねん、二人きりにしたら。
- 男
- そ、そうですね、二人きりはまずいですね。
- 女
- ほら、海がキラッキラしてる。
- 男
- 日が傾きかけてきたから、太陽の光が反射して。
- 女
- 最高のムードやん。
- 男
- 最高のムードですね。
- 女
- ちょっとあの二人、寄り添ってるし。ほんまやったらあそこにいるの私のはずやのに。
- 男
- …でもね愛子さん、僕はやっぱり違うと思うんです。
- 女
- え?
- 男
- ジンクスとかそういうの。
- 女
- 何が?
- 男
- 波の音、夏、夕暮れ、男と女。そりゃわかりますよ、気持は。でもね。思うんです。これは本当の愛なのだろうかって。だから嫌なんです。物語に頼るのは。そう、これはジンクスというよりは物語なんです。
- 女
- 物語?
- 男
- 物語は僕を僕でなくしてしまう。自分とは別の誰かが喋っているようなそんな気がするんです。だから僕は物語を否定します。でも、物語は実に魅力的です。合宿のジンクス、僕は愛子さんとお近づきになりたい。できることならお付き合いしたい。そのためになら僕は物語という悪魔に魂を売り渡してしまいそうになる。ジレンマです。でも、だからこそ僕はあえてしません。いや、しちゃいけないんだ。だから、すみません。
- 女
- えーっと、小島君。
- 男
- はい。
- 女
- ちょっとよくわからんのやけど、それって、もしかして、小島君、私のこと。
- 男
- いけません愛子さん、それ以上は、物語が、ジンクスが。
- 女
- あのさ小島君、それはないから。
- 男
- え?
- 女
- そのなんていうの、私と小島君の間には、関係ないから。ジンクスとか。
- 男
- 何でですか?
- 女
- 何でって言われても。
- 男
- ジンクスでしょ。
- 女
- それよりも小島君、今すぐあそこまでボートで行ってあの二人、邪魔してきてくれる?
- 男
- え?
- 女
- さっき何でも言うこと聞くって言うたやろ?
- 波の音がする。
- 男
- …ジンクス、破れたり。僕は物語を越えたのだろうか、それとも。
- 女
- 何言うてんの? 早く行ってきて。
- 波の音がする。
- おしまい。