- ひとごみ。
- 女
- 知らなかった。
- 男
- そうだっけ?
- 女
- そんなこと言ったことないじゃない。
- 男
- 聞かれなかったから。
- 女
- 聞かなくたって、言ってくれればいいのに。
- 男
- だいたいさ、キミは「好き」とか言うとそればっか買ってくるから。
- 女
- それは、喜ぶと思って・・・。
- 男
- 同じものばっかり出されると、アキたりキライにもなったりするわけで。
- 女
- だから言わなかったの?
- 男
- そんなことないけど。
- 女
- そうだ、そうよ。
- 男
- なに。
- 女
- 林檎とか梨は、皮をむいて出さなきゃ食べないのに、桃は自分で勝手に食べるもんね。
- 男
- そうだな。
- 女
- 衝撃の事実。
- 男
- おおげさだよ。
- 女
- 旦那の一番好きな果物を知らなかったのよ。二十五年も夫婦やってるのに。
- 男
- ま、たまには入院してみるのもいいもんだ、ってことで。
- 女
- のん気なこと言っちゃって。
- 男
- 明日から、桃ばっかり買ってくるなよ。
- 女
- 買いませんよーだ。季節はずれだから、きっとものすごく高いし。
- 男
- ・・・じゃあ、あいつ奮発したんだな。
- 女
- その桃をくれたのって、
- 男
- ハルオ。
- 女
- ハルオが来たの?
- 男
- 昨日の晩、ふらっと。
- 女
- あの子、父さん入院したってメールしたのに返事もよこさなかったのよ。
- 男
- 返事の代わりに、直接来たんだろ。
- 女
- 来るなら、知らせてくれたらいいのに。
- 男
- 新米社員は何かと大変なんだって。
- 女
- そうなんだろうけど、ホント気が利かないっていうか・・・。
- 男
- あいつ覚えてたのかな。
- 女
- なにを?
- 男
- ほら、ハルオが生まれた時、桃の木を植えたろ。
- 女
- うん。
- 男
- 「俺はオトコなのに、なんで桃の木を植えたんだ」って聞かれたことがあって、小学校ん時かな。
- 女
- 桃が好きだから植えたんだ。
- 男
- 端的にいえばそうなんだけど。
- 男
- 祖父ちゃんちの裏の畑に桃の木があってさ。夏休みに行くと、桃の食べごろでね。ラジオ体操は寝坊してろくすっぽ行けない俺が、夜明け前に起きて、木の下に行って桃が落ちるのを待ってる。
- 女
- もがないの?
- 男
- 一番旨いんだって教わったの。熟して木から落ちた、その桃が。
- 女
- まさに完熟ってやつね。
- 男
- そう。しかも落ちてすぐのでないと、虫がたかっちゃって食えないから、早起きして待つわけ。・・・あの美味い桃を、食わせたかったんだよな・・・。
- 女
- 我が家の桃の木は、花しか咲かないけどね。
- 男
- そういう種類みたいだな。
- 女
- さてと、炊事場で桃むいてこようかな。
- 男
- お世話かけます。
- 女
- ねえ。
- 男
- ん?
- 女
- ・・・まだ、落ちないでよ。
- 男
- ・・・。
- 女
- 熟してないんだから。まだ。
- 男
- あったりまえだろ。
- 終わってまた始まる