- ひとごみ。
- 女
- あ、
- 男
- おう
- 男
- 久しぶりに松井理恵にあった。大学以来、だから8年ぶりだ。あの頃、僕らは同じ学生アパートに住んでいて、松井理恵は僕の斜め前に住んでいた。
大学四年生の秋。それは夕方の出来事だった。大学で友達と話していると。
- 女
- 「いま、どこ?」
- 男
- 松井理恵から電話。
「いま大学」
- 女
- 「帰ってきて」
- 男
- 「え?」
- 女
- 「10分まつ」
- 男
- 何がなんだがわからんが、なにかあったのかもしれない。すごくたいへんな何かが。
急いでアパートに帰ると、僕の部屋の前で松井理恵が米びつ抱えて立っていた。
- 女
- 「こめ。ちょうだいよ」
- 男
- 酔ってやがる。この女。なんだよ人呼び出して。でも逆らうのもめんどくさいしな。
- グリモ
- お米を入れる音。
- 男
- 「これくらい?」
- 女
- 「もっとだ」
- お米を入れる音。
- 男
- 「これくらい?」
- 女
- 「よし」
- 男
- こめびつを渡す。すると次の瞬間。松井理恵は僕んちのトイレにかけこんだ。
- 「どんどん」とドアをたたく音。
- 男
- 「おーい。大丈夫か?おーい」。返事はない。そのまま30分。一時間。もしかして、寝た?
- 男
- 「おーい。大丈夫か?」
- 女
- (ドアの向こうから、泣き声で)「ごめんな。わたしなんか、いないほうがいいよな」
- 男
- 「え?」
松井理恵は泣いていた。泣きながらトイレからでて、米びつを抱えて、帰っていった。
それからしばらくして、同じアパートの別の女の子に、どうして松井理恵をフッたのか?と聞かれた。「フッた」?おれ告白なんかされてないけど。でも、松井理恵は俺に告白してフラれたと、言っているらしい。え?もしかして、あの日の、あれ?あれが告白?あれは‥、失敗だろ。
それから卒業まで僕は思い続ける。
「そうか、俺のこと好きなのか、そうか、松井理恵」
「でも、あの告白は失敗だよ、うん。松井理恵」
てっきり、いつか、もう一度告白してくるんじゃないかって、緊張したりして。
僕はすっかり松井さんのことが好きになってしまった。
でも何にもなく、卒業。
- ふたたびひとごみ。
- 男
- 久しぶりにあった松井理恵は、ちょっとおばさんになってた。まぁそのぶん僕もおじさんになってるんだろう。
- 女
- かわってないね、あんまり。
- 男
- あ、そう。松井さんも。
- 女
- あ、そう。そうかな。いま、何してるの?
- 男
- フリーター。ぼーっとしてるかな。
- 女
- へー。
- 男
- 松井さんは?
- 女
- 事務、事務、事務員。今はお休みだけど。
- 男
- え?
- 女
- 赤ちゃんできて。あ、わたし、結婚してて。
- 男
- へー。
- 女
- 去年の二月に。
- 男
- おめでとう。
- 女
- アハ、アハ、アハ、ありがとう。じゃ、また。ゆっくり。
- 男
- 松井理恵は去ってゆく。エビのように。後ろ歩きで、なぜか恥ずかしそうに。
ちゃんとしてるじゃん。松井理恵。ちゃんとしてるな松井理恵。
あの時、失敗したのは、僕のほう‥
‥なんて一概に言い切れないのが、人生だよね、きっと!
- おわり