- 男
- ある日、バイトから帰ると、母から電話があった。
- 電話の声(母)
- 私がな、アルフィーのコンサートいったのよ。一番前で高見沢さんのすぐ前、それでボーン!って大砲なって、銀色のテープがワーって降ってきてな、それで、私、わーってそれひろってんけど、
- 男
- 拾ってきたそのテープを母は大事に飾っておいた。ところがそれを見た父は畑のカラスよけにちょうどよいと無断で持ち出したのだ。
- 電話の声(母)
- (涙声で)わたし、別れる、あんな人とは…
- 男
- それから二週間くらいして、僕は実家に帰った。
- SE「セミの声」
- 男
- ただいまー。
- 母
- お帰り、お風呂沸いてるよ。
- 男
- ひー。暑い。
- 男は冷蔵庫を開けた。
- 男
- うわ。
- 母
- きゅうりしかないよ。
- 男
- 何これ?
- 母
- きゅうりばっかり作ってはるねん。ここ二週間くらいずっときゅうり。
- 男
- おやじは?
- 母
- (二階に向かって)お父さん!コウジ帰ってきてるよー。
- 男
- これは?
- 母
- きゅうりのからし漬け、
- 男
- こっちは?
- 母
- きゅうりの糠漬け、
- 男
- これは、
- 母
- キムチ、きゅうりの、(二階に向かって)おとうさーん、コウジ帰ってきてるよ。あかん、返事もせーへん。
- 男
- 何してるの?
- 母
- ドラマやん。韓流ドラマ。DVDで見てはるねん。
- 男
- へー。
- 男
- 夜になってキュウリだらけの夕食を食べた。あいかわらず父は無口で、母が一人で喋ってる。母が言うには、私は本当は無口だけど、この人、つまり父があまりにも喋らないから、しかたなく喋っているそうだ。なるほど、半分は真実だろう。食事が終わってお茶請けがわりにキュウリのからし漬けを番茶で食べながら、母が言った。
- 母
- こないだ。お父さんとカラオケ行ったのよ。
- 男
- え????カラオケ?
- 母
- そう。びっくりやろ。鎌倉のヨシヒコさんとこの息子さんの仲人したやろ、それでこの間、ヨシヒコさんがお礼にうちきてな。
- 男
- 誰?ヨシヒコさんって?
- 母
- お父さんの従兄弟やん。あんた知らんか?
- 男
- それでどうなったん?
- 母
- ヨシヒコさんがな、カラオケいこいわはったからいったのよ。
- 男
- で、おやじは何を歌うの?
- 母
- 歌わへん。何にも、それやのにズット唄の本みてな、ドンドンドンドン入れていかはるのよ。
- 男
- は?
- 母
- 鶴田浩二、舟木和夫、水原弘、
- 男
- だれそれ?
- 母
- で、私に歌え歌えいわはるねん。わたし知らんよ、鶴田浩二なんか、
- 男
- 母はふかーくため息をついた。その夜、僕は短い夢を見た。炎天下の下。キュウリをマイクがわりに、父と母がデュエットしてる。二人ともすっかり農家のおじさんとおばさんで、唄っているのは僕のしらない昔の唄だ。
- 「ただいまー」と玄関で声。
- 男
- 妹が帰ってきたようだ。もう深夜の一時。僕は眠りながら耳を澄ます。酔っ払った足取りで妹は台所に向かう。そして冷蔵庫を開けたが、…妹よ、そこにはきゅうりしかないのだよ。案の定、妹は乱暴に冷蔵庫をしめた。そろそろだな。そろそろ妹も結婚をして、この家を出るのだろう。
- おわり