- 女
- やあねぇ。
- 男
- 何だ。
- 女
- そんなに息切らしちゃって。
- 男
- なんだこの坂は、まったく・・・年寄りの来る場所じゃない。
- 女
- 私は平気よ。だから一緒にウォーキングしましょって言ってるのに。
- 男
- 目的もなくただ歩くなんて、バカのすることだ。
- 女
- はいはい。
- 男
- まさかお前、
- 女
- なんです?
- 男
- ただ歩かせるために、この坂を登ってるんじゃあるまいな。
- 女
- 違いますよ。
- 男
- だったら、どこへ行くつもりなんだ。
- 女
- ふふふ・・・懐かしいわ。昔、この坂を番頭さんに付いて何度も登ったのよ。できたての靴を抱えて。
- 男
- できたての靴?
- 女
- 私の奉公先、靴屋さんだったの。言ったことなかったかしら。
- 男
- 聞いたかな。
- 女
- この坂の上に外人さんがたくさん住んでいてね。皆お得意さんだった。今でも、まだいくつかお屋敷が残ってて、見学できたり、レストランになってたりするらしいわ。
- 男
- 異人館とか言うんだろ。
- 女
- ご存知でしたか。
- 男
- ワシは興味ないぞ。見たいならお前だけ行ってこい。
- 女
- あら、もうギブアップですか。
- 男
- そんな事は、言っとらん。
- 女
- あともう少しですよ。
- 男
- だから、目的地はどこだと聞いてるんだ。
- 女
- ねえ、振り返ってご覧なさいよ。随分登ってきましたよ。ほら、海が、キラキラしてる。
- 男
- ああ。
- 女
- 私たち今まで、こんな風な苦しい上り坂ばかりでしたねぇ。
- 男
- お前、ひょっとして・・・。
- 女
- 何です。
- 男
- り、離婚か?離婚したいのか?
- 女
- え?
- 男
- 知らないとでも思ってたのか。ワシの居ないところで、こそこそ娘たちと良からぬ相談をしてたろ。
- 女
- そんな事してませんよ。
- 男
- しかし、
- 女
- ある時ね、靴屋で火事が起きたの。焼け出されてしまった私たちに、部屋を貸してくれた方がいたわ。外人さんのおばあちゃま。言葉は通じないんだけれど、まるでお客様のように親切にしていただいた。朝日が差し込む、朝食を食べるだけのための部屋。宝石のようなシャンデリアのあるパーティルーム。あったかい暖炉、お姫様の眠るようなベッド。まるでおとぎ話のような暮らしだった。
- 男
- すまんと思ってる、これまでなんの贅沢もさせてやれずにいて。
- 女
- あすこ。
- 男
- え?
- 女
- あの山の中に見える緑の屋根のお屋敷。あすこにしばらく居たの。あなたとの縁談が決まって、ちゃんとご挨拶もしないまま・・・あれから、もう六十年、ううん七十年近く・・・。あのお屋敷が、まだ生き残ってたって知った時は驚いたわ。
- 男
- 会社もようやく、いい形でスミエとヒデオ君が引き継いだ。
これからじゃないか、そうお前もとも話をしたろう?
- 女
- 反対ですよ。
- 男
- 何に反対なんだ。
- 女
- 離婚じゃなくて、結婚式。
- 男
- へ・・・。
- 女
- まだしてなかったでしょう。娘や孫たちも、あのお屋敷で待ってくれてるの。
- 男
- 結婚式?
- 女
- 私たちのね。
- 男
- え、何だって?
- 女
- やあねえ、耳まで遠くなっちゃったの?・・・ほら、あともう少し、頑張って登りますよ。
- 終わってまた始まる