- 女
- (モノローグ)兄が昨日死んだ。三日間降り続いた雨の中、バイクを走らせて車にぶつかったらしい。
思えば兄とはもう何年もまともに会話したことがなかった。最後に会ったのは私の結婚式だったと思う。兄の姿は相変わらずどこか卑屈で、ろくな会話もせず、「用事があるから」と、さっさと帰ってくれてホッとしたことを覚えている。
中学高校と、私はこの兄のおかげでどんなに惨めな思いをしたかわからない。そうそう、兄妹だと知られたくない為に、
- 突然車の通り過ぎる音。
- 女
- あ。(また泥が付く)
- 男
- 避けろよ。
- 女
- やだな…どうしよ…
- 男
- そういえば見たことないな。その喪服。
- 女
- いいでしょこれ上品で。
- 男
- 高かったろ。
- 女
- ちょっと前にね「冬の大礼服祭」で買ったのよ。
- 男
- 高かったろ。
- 女
- でももうサイズ合わなくなっちゃったから前のは。買っておいて良かったのよ。
- 男
- いくらしたんだよ。
- 女
- …ねぇ、覚えてない?私達の結婚式で。
- 男
- うん。
- 女
- 来たじゃない。
- 男
- …お兄さん?
- 女
- 何か喋った気がするのね。
- 男
- うん。
- 女
- 何喋ったっけ私。
- 男
- 知らない。
- 女
- あなたも横にいたのよ確か。
- 男
- うん。
- 女
- 何喋ったっけ。
- 男
- 知らない。
- 猫
- あの時だけでしょ会ったのって。覚えてないの?
- 男
- 正直顔も曖昧で。
- 女
- ……
- 男
- …あ、いやごめん。
- 女
- 顔。あなた「顔、似てますね」って言ったのよ。
- 男
- そうだっけ。
- 女
- 向こうも「兄妹ですからね」って言って。その後なんか言ったんだっけ。
私も何か言わなかった?
- 男
- 知らない。
- 女
- (モノローグ)事故が起きたのは明け方だったらしい。そんな時間にサラリーマンがどこに向かったんだろう。雨の中、バイクで。…もしかするとこうなることを覚悟してたのかもしれない。
- 男
- …俺はね、コンビニでも行ったんじゃないかと思うんだけどな。お兄さん。
- 女
- …え?
- 男
- 思い出したんだよ。プリン買いに行かされた事があるだろお前に。
雪が積もった朝に。
- 女
- そう?
- 男
- 自転車で行って来いって言われて何回も滑って転んで。
- 女
- あなたそんな事してくれる人じゃないじゃない。
- 男
- 学生の時。
- 女
- あぁ。
- 男
- きっといい感じでコンビニ向かったんだよ。お兄さんも。
- 女
- そんな相手、いるわけないじゃないあの人に。
- 男
- わかんないだろ。
- 女
- ……
- 男
- わかんないじゃないか。
- 女
- …(モノローグ)夫が何を言いたいかよくわかっていた。昔からわかっていた。
…情けなくて惨めなのは私の方だということ。
- 車が水溜りに突っ込む。
- 男
- うわっ…
- 女
- (モノローグ)泥交じりの水しぶきは、今度こそ私の頬をめがけて飛んできた。泥の雫は首元をつたい、胸の谷間を這って、私の中心の、ヘソにまで到着した。その瞬間、きっとこうやって泥まみれになったであろう兄の姿を想った。
- 男
- ちょっ…拭けよ早く汚いな…大体そこじゃなくてもうちょっとこっちに寄れば、
- 女
- (呟く)兄さん…
- 男
- え?
- 女
- …兄さん…
- 男
- ……。
- 女
- …呼びたかったのよ。そういう風に。兄さんって。
- 男
- …うん。
- 女
- ……。
- 男
- ……遅れるぞ。
- 女
- ……はい。
- 【お終い】