- 男
- ここです。
- 女
- 案内されたのは、路地の一番奥の建物。入り口を見るかぎり古い民家のよう。
滑りのよい引き戸。
- 男
- まっすぐ奥まで入ってください。
- 女
- 案内してくれたのは、管理人らしい。印象的な目。見透かされているような。
でも嫌な感じはしない。
上がりがまちに腰掛けてブーツを脱ぐ。
脱ぐのがわかっていてブーツを脱ぐあたり、私は本当にぬけている。
- 男
- つきあたり、勝手口を開けると庭がありますよ。
- 女
- え?庭?平屋の一戸建てでも清水の舞台なのに、家賃聞き間違えたかと相手を見る。
- 男
- と言っても、借景なんですけどね。
- 女
- なるほど。ああ…でも、こじんまりとした畑と何種類かの木々…小さな秘密基地のよう。
あの畑の隅の小屋は何だろう?
- 男
- 四月になったら桜が綺麗ですよ。 1 本だけだけど。
- 女
- 目の印象的な人が言う。この人こそ、ここによく似合う。…いや、ここで暮らす私のことを考えよう。
静かな平屋できちんと生活する私。静かな平屋で、と水まわりや押入れを見て歩く私に「あ、朝がうるさいんです、すいませんけど」と彼が言う。え?
- 男
- 毎朝鳴くんですよ。ニワトリが。あの畑に小屋があったでしょう。二羽いるんです、ニワトリが。
- 女
- あーあの小屋。…ニワトリが二羽。「はい」と彼が言う。
あれ?口に出していっていないのに。「朝五時ごろ。早い時は四時ごろ鳴く時もあります」だって。
まあいいかと言う気になる。嫌な気がしないから。はは。急に気に入ってしまった。
「ここに決めます」と口にして言ったあと、この人ひょっとして心が読めるのかしら、と…声には出さずに念じてみる。あなたニワトリは好きですか?私は猫が好きだけど。
- 男
- さて、じゃぁそろそろ。
- 女
- と、彼は玄関に向かう。やっぱり気のせいか。
ブーツに右足を押し込む私に彼が振り返る。
- 男
- すいません。それと、ウチの猫が時々遊びに来てしまうかもしれない。
相手にしなければ邪魔はしませんから。
- 女
- あ…。すごいかも。
- 男
- 今日、カギをお渡しします。
- 女
- …。「はい…よろしくお願いします」
- 二人は引き戸をしめ、カギをかけ、歩き出す。
春のやわらかい日なたと、家々の影が、路地に不思議な絵のような模様を作っている。
- END