三日ごとにすべてを忘れる幸徳秋子と僕が結婚したのは去年の秋だった。
 だから、もう 1 年になる。そして幸徳秋子は三日ごとにすべてを忘れる。
自分の名前も僕の名前も、僕らが結婚していることもすべて。
  その日。目覚めるとシャワーの流れる音がする。幸徳秋子はシャワーに打たれながらここがどこなのか必死で思い出そうとしているわけだ。すでにこのとき彼女は僕のことなど忘れているから、ここは顔をあわさずに寝ているふりわ続けた方がいい。そのうち彼女は外に出る。どこにいったのか?うちの近所にはとてもおいしいカレー屋さんがある。ココナッツカレー五百五十円。彼女はそこにいる。
「こんにちは」
「・・・こんにちは」
「ここのカレーはおいしいですね」
「ええ」
「なんだかとても懐かしい味がしませんか?昔どこかで食べたことがあるような」
「そういえば・・・」
そして僕らは映画館に向かう。誰も死なない。誰も泣かない映画だ。
「何もおこらなかったね」
「面白かった」
「どういうところが?」
「何もおこらないところが」
僕らが歩くのは海沿いの道だ。堤防からおじさんがカモメに餌をあげている。
僕らこれまでに何度も見てきた風景だ。彼女は真剣にそれを見詰めている。
「まだ映画が続いているみたい」
「大丈夫?待ってる人がいるんじゃないの?」
「・・・うん。でも・・・」
「思い出せないんだ」
会ったら、すぐに思い出すと思うんだけど」
やれやれ。
でも僕以上に幸徳秋子は悲しそうな顔をするから。
しばらく黙り込んだあと僕は幸徳秋子の手を握る。
少し驚いて僕の顔を見るが、僕は不機嫌な顔をして黙り続ける。
その顔が面白いのか幸徳秋子は笑いながら、
「でもあなたみたいな人だったらいいな。私を待っててくれてる人が」
で。僕は写真を見せるんだ。二人の結婚式の写真を。
「・・・」
「思い出した?」
「かえろっか」
こんなことが三日に一回。正直、疲れる。
それからの三日間を僕らはとても大事に過ごす。
彼女は三日たてばすべてを忘れることを知っているから、一つ一つをとても大切にする。食事とか、洗濯とか、一緒にビデオを借りにいくとか、しっかり、ゆっくり、確実に行ってゆく。
やがて三日目の夜がきて。
「お別れ・・・、かな」
「お別れ、・・・かしら」
「今度はうまく君を口説けないかもしれない」
「・・・がんばってよ」
「・・・うん」
「もう寝ましょ。あんまり食べるとお腹がもたれて」
男と女
「明日カレーを食べられなくなる」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
そして翌日。シャワーの流れる音がする。
彼女は部屋を出て行く。
僕は追いかけて。そして声をかける。
「ここのカレーはおいしいですよね」