- カラカラカラ
荷台に荷物が山積みの自転車、緩やかな坂の途中で私は汗をかく
ガラガラガラちっとも進まぬ、坂の途中
- 私
- くのぉ~、この、くの、ぬぉ~…!
- 師匠
- もっと腰いれて、もっと力いれて、あかんって、あかんわそれ。
- 私
- ちぉ~、うぉ~…
- 師匠
- ああ、ああ、さがっとるやんか。進め進め前進やで。
- 私
- だって重たいですよ。
- と、私はすっかり力も気も抜いた
- 師匠
- さがっとる!さがっとる!
- 私
- ああ!
- 師匠
- ストッパー貸せ。
- 私
- ああ!
- どうやら師匠が車輪にストッパーをかけてくれたようで
- 二人
- ふぅ~…
- 師匠
- 言うてるやろ。坂の途中で気ぬいたらあかんって。さがってさがってスタート地点逆戻
りやで。一時停止の時はストッパー。これ基本。
- 私
- はい…
- 二人の横を、文明の力の車が何台も通りすぎる
私、大きな溜め息
- 私
- 師匠…
- 師匠
- 師匠なんて呼ばんで!照れるから!
- 私
- 坂本さん。
- 師匠
- 師匠にしとこか。一応な、教え、教えられる関係やから。
- 私
- 師匠、今どき仕事ないでしょ?押し屋なんか。車で坂なんかスイスイ走れるし。
自転車でもモーターついてるやつあるし。
- 師匠
- 君、弟子にしてくれっていきなり来たくせに手厳しいな。
- 私
- はぁ、ほんまのことやから。
- 師匠
- これ、ライフワークよ。
- 私
- は?
- 師匠
- 僕の本職本屋さんやねん。
- 私
- でも、押し屋の看板…
- 師匠
- これ先祖代代の仕事でな、いわゆる伝統職人?僕が大阪最後の押し屋やから。
- 私
- じゃ私が立派にこの仕事マスターしたら?
- 師匠
- 日本初の女性の押し屋誕生やね。
- 私
- 跡取りとかは?
- 師匠
- 今んとこ、君?
- 私
- 私?
- 師匠
- 君のみ。当たり前やん。おらんやろ。今どきこんな仕事もういらんし、派手な仕事やな
いから見世物にもならんし、
- 私
- じゃ、なんで今でも看板しょってるんですか?
- 師匠
- 大阪やん。
- 私
- はぁ、
- 師匠
- いっぱいおったわけや、押し屋が、昔は。坂ばっかりのこの町で。緩やかな坂、小さい
坂、急な坂、大きい坂、だから大坂、大阪。この町の語源やね。
- 私
- で?
- 師匠
- でや。坂ばっかりやから、転がり落ちるのを生まれた時から知ってんの。でや、這い上
がらなあかんことも知ってんの。たまーに、来るわ。這い上がり方を思い出しに。重い
荷物後ろから押してるうちに、坂の途中で這い上がり方を思い出すらしいわ。
- 私
- あ…
- 師匠
- …あんたもそうやろ?
- 私、気まずくなって立ち上がった
- 私
- 続き、します。
- 師匠
- そう、そう。進め進め前進やで。
- カラカラカラ、ガラガラガラ
荷台に荷物が山積みの自転車、緩やかな坂の途中で私は汗をかく
ガラガラガラちっとも進まぬ、坂の途中
- 私
- このぉ~、この、この、と後ろから荷物の乗った自転車を押し上げている私の声は、今
まで聞いたことのないまるで他人のような声。じっとり汗ばむ背中も額も。もっと無心になれ。転がり落ちるところまで落ちて、見上げた坂は大きすぎて途方にくれた。まるで他人のような必死の声と、まるで人事のようなこの汗がいつか思い出させてくれるかもしれない。私はまだ坂の途中。
師匠はきっと、看板を降ろすことはしないだろう「私」という人間が幾人もここへやってくるのだから
- おしまい