深夜である。水洗便所の流れる音。父(46歳)はトイレで深く考え込んでいる。
「あれ?」
便座があがっていた…、便座があがっていたな…、俺があげる前から、便座があがっていた…
「なんでや?」
一人娘の三人家族。男は俺一人。便座をあげるのは俺一人。でもいま俺が便座をあげるより先に、すでに便座はあがっていた。…うん。あがっていた。
「…おいおい」
ぼけたのかな。上げといて忘れちゃったのかな。46歳。ぼけるには早いな。ちょっと飲んでるからな。きっと寝ぼけて記憶が飛んでるのかな。うん、多分そうだろう。
「いや、ぼけてない」
おいおいおい、だれかきてんのか?忍者か?忍者。忍者がトイレ借りていったのか?サラリーマンの家に忍者は来ないな。おいおいおい、サンタだ!サンタ、サンタが小豆島の親戚の家にきてその帰りにうちのトイレかりて…ありえねーな!
「やばい!」
父はトイレを出る。階段を駆け上がり、寝室にもどる。
(小声で力強く)「おい、おきろ!おい!」
(寝ぼけ声で)「…はいはい」
「最近どうなんだ」
(寝ぼけ声で)「はいはい」
「最近はメグミと会話してるのか」
(寝ぼけ声で)「はいはい」
「最近メグミはどうなんだ!」
(寝ぼけ声で)「元気ですよ」
「メグミは最近…」
妻の寝息
「ガタ」と階下で物音
「アヒル」?
落ち着け!
アヒルじゃない。混乱してる。父としての威厳を、いや男としての威厳を持たねば。殴るのか?殴らなきゃいけないよな。うちの娘をキズモノにしやがって。「キズモノ」?違う!メグミはキズモノなんかじゃない。第一そんなこと言ったら一生メグミと会話できない。ただでさえ会話がないのに。プイと出て行かれでもしたら…
「まだ早いだろ」
うん。まだ早いはずだ。だってメグミはまだ高校生。…女子高生か…
(少し感傷的な声で)「メグミ…」
そういえば最近メグミは痩せたな。ますます岸和田の伯母さんに似てきて、骨ばってきたっていうか、美人になったというか。でも岸和田の伯母さんもそうだったもんな、美人だったけど、不幸だった。不幸になるほど化粧がうまくなって、ますます美人になって。ますます不幸になって… (少し感傷的な声で)「メグちゃん…」
パパはね。ぷくぷくしたメグちゃんのほうが好きだったよ。食事のあと牛乳がぶ飲みしてるメグちゃんがすきだった。もちろん、君は自由さ、パパの勝手なエゴかもしれない。でも、でも…。
「おい、おい!」
(寝ぼけて)「…もう」
「お年頃って何歳ぐらいだ?」
(寝ぼけて)「…勘弁してください」
「お年頃って何歳ぐらいだ?」
(寝ぼけて)「私だってお年頃ですよ」
「やめろ、まとわりつくな」
(寝ぼけて)「はいはい」
「そうじゃない。はなせ。そーゆうことじゃない」
(寝ぼけて)「そーゆうことならもっと早く言ってください」
「だからそーゆうことじゃない!」
(寝ぼけて)「はいはい」
お年頃の夜は更けてゆく
おわり