ポロン
満月の夜
どこかのゴミ捨て場で
ボロン
音がこぼれた
どの音かしら
ポロンポロンと音がするほうへ歩いていく観客
もうすぐ演奏会が始まるのだ
観客はいつでも、何かを観る時に、
会場に行くまでの間、それまでに至る時間を思い返すものだろう
ピア
真夜中に演奏会をするの。
観客
と、彼女は言いました。
ピア
大丈夫よ。照明のかわりに空に満月があるから。
観客
人差し指高く空指して
ピア
雨、降らなきゃいいけど。
観客
雨天決行だから、と付け足した。
ピア
だからこのまんまじゃきっとマヌケな演奏会になると思うの。だってほら、
ポロンと、鍵盤からはズレたドレミが聞こえる
ピア
ね。マヌケ。
観客
ゴミ捨て場にピアノと彼女はひどく似合わなくて、それでも僕はただ僕の仕事をするだけで、調律が終わるまでの間、独り言のような彼女のおしゃべりが音楽のように流れていた。
ピア
捨てちゃうのね。毎日。きっと何かを捨てちゃうのね。私も、誰かも。捨てたらそれもう誰のものでもなくて、それをゴミって言う。春の終わりごろかな。それからずっと捨てられっぱなしだったから。初めはね、誰これ捨てたの、引き取りに来てもらえばいいのに、そう思って。でもこの前の夜にね、こっそりゴミ袋捨てに来たの。ほんとは朝じゃないとダメなのに、めんどくさいから。そしたらね、ポロンって。ちょうど雲の切れ間から月が顔を出した瞬間だったと思う。ポロンって、あれ、今これ泣いたのかなって。真夜中に一瞬だけ、誰にも気づかれないように、泣いたのかなって。それ空耳でもなくて、ほんとのことで、ポロン、ポロン、つられて私も泣いた。私も、これも、ゴミになっちゃったねって、お互いね。あんたはどんなやつにいらないって言われたの?私はねぇ…って鍵盤撫でながら、おいおい、ポロンポロン泣いて。
観客
調律終わりましたと言っても彼女のおしゃべりの音楽は止まない。
ピア
このマンションの住人の誰かに決まってる。だから真夜中なの、演奏会は。一日の終わりにベッドに入ろうとした瞬間に聞こえてこなきゃダメなの。もう忘れてしまった捨てられたモノが動き出すのは一日の終わりでなきゃ。もういらないと言われたモノが、考えられない音を出したら、捨てた人は何思うのかしら。
観客
捨てる神あれば拾う神ありですねと、営業用の言葉で返した。
ピア
捨てなきゃ良かったって、思うかしら。
ポロンと鳴らすときれいなドレミ
ピア
ありがと。これならきっと大丈夫。すごい演奏会できそう。
観客
ピアノと意気投合したおかしな彼女はにこやかに代金を支払って、僕は聞くつもりもなかったのに思わず、
ピア
え?演奏会?今日よ。今夜、真夜中にね。
観客
そうですか、がんばってくださいね。と言って車に乗り込んで会社に戻った僕は、今夜きっとまたこのゴミ捨て場にやってくるだろう。彼女とあのピアノが奏でる音楽を聴きに行くだろう。出来れば澄みきった夜の空に浮かぶ満月を願いながら。そして彼女の思い通りそれがすばらしい演奏会になれば、僕は何思うだろうか。嫉妬するだろうか。安堵するだろうか。怒りを覚えるだろうか。ただうなだれるだけだろうか。ため息さえもでないだろうか。それとも拍手を送るだろうか。捨てなきゃ良かったと思うだろうか。諦めなきゃよかったと思うだろうか。もう一度やってみようかと思えるのだろうか。雲の切れ間から月がのぞいた瞬間ポロンと泣いたのは僕自身だったんじゃないだろうか。
ピアが弾いているのか、ポロンポロンと聞こえてくる
観客
僕が春に何を捨て、何に捨てられたのか、彼女はまだ何も知らない。
観客はゴミ捨て場という会場に、もう一度やってきた
ほら、演奏会が始まる
おしまい