-夫のモノローグ-
ある犬の話をしよう。世界を失った犬の話。ある外国の大きな船、そうだな国から国へ石油を運ぶ大型タンカーだ。そのタンカーの船員たちが船の上で一匹の犬を飼っていた。地上での生活を知らないその犬にとって船の上が世界の全てだった。爽やかな潮風と、優しい船員たち。しかしタンカーを保有する会社が倒産し船は解体されることになった。港で野良になった犬は船の解体作業をたった一人で悲しそうに見つめていた。巨大なクレーンが自分の世界を壊していく。船が船の形でなくなったとき、犬はストンと眠るように息を引き取った。そう、今の私がまさにそれ。‥いや、止めよう。自分を犬に例えるのは。
-部屋で掃除機をかけている音-
ちょっと。
んぁ?
邪魔ですよ。
何だよ?
ほら、散歩でも行ってきてくださいな。
いいよ。
そんなゴロゴロされたら何も出来ませんよ。
散歩散歩って犬じゃあるまいし。
餌は毎日あげてるし、散歩だって行ってるじゃないですか。犬とどこが違うんです?
あのなぁ。
ちょっと煙草は換気扇の下で吸ってくださいよ。
ほっといてくれ。俺は数十年ぶりに得た首輪の無い生活を謳歌するんだ。あぁもう犬に例えるのは止めよう。切なくなってきた。
兎に角、邪魔だから出ていってくださいな。
何怒ってるんだ?
別に怒ってませんよ。
-再び夫のモノローグ-
そう、妻は怒ってる。今まで私が仕事を言い訳に彼女の人生に踏み込まなかった事に。だがこれからは違う。
‥一緒に行こう。
何?
散歩。
は?‥そんな、いいですよ。
折角なんだからたまには。
いいですって。
ほら、用意してこい。
あらあら、ちょっと。
掃除機かけとくから。ほら。
わかりましたよ。もう何張り切ってるんですか?
-妻、別室へ。夫のモノローグ-
とかなんとか言いながら、あの嬉しそうな顔。これからは二人の時間をちゃんと取ろう。互いの人生にもっと踏み込むんだ。そうだ犬を飼おう。そして毎日、夕暮れに川沿いを二人と一匹で歩く。言葉は入らない。ただ静かにゆったりと時間が流れる。あの洋上の犬も、より広い世界と無数の可能性に目を向けるべきだったのだ。
―妻、戻って来る―
あなたの着替え、ここ置いときますからね。
‥おい。何だその格好は?
何って。出かけるんでしょ?
ちょっと散歩に出るだけだろ。
もう三時ですよ?食事も外で済ますでしょう?あ、ついでに買い物も付き合ってくださいね。
ちょっと何で俺までスーツなんだ。お前は一体どこに行くつもりなんだ?
折角のデートじゃないですか。私、車まわしてきますから。
デートって。‥ネクタイまで。おい。
―扉が閉まる音―
…結局首輪着けるんじゃないか。
おわり