- ラジオノイズ。
やがて、甲高いチューニング音が混じり始める。
そして時折、「意味ある音」が遠くに聞こえる。
- 声
- 例えば、二親の肉を食したとして、私の歯は噛み砕き、引きちぎり、胃は溶かし、腸はむさぼり、その糧をもって私の体は厚みを増し、動きは俊敏になるだろう。全身を駆けめぐる血液が憎悪と嫌悪に染まったとしてもだ。いつからこんな体であるのかというと、多分生まれたときからだろう。あるいは生まれたばかりの無垢の魂であるなら憎悪にも嫌悪にも耐えられるのかもしれぬ。むしろ、憎悪も嫌悪も感じずに済むだけ、高潔に獣であることを保てるだろう。
- チューニング音がして、不意にラジオノイズが止む。
- 男
- もう、始まってるんですか?
- 女
- いつ始まったのか、私も知らないんですけどね。
- 男
- それじゃ、やっぱり始まってるんですね。
- 女
- ええ、多分。始まったと思ったら、きっと始まってるんですよ。
- 男
- 自分で勝手に決めるものなんですか?
- 女
- そういうものじゃないんですか?
- 男
- それじゃあ、なにかしないといけませんね。
- 女
- そういうものなんですか?
- 男
- だって始まっているんでしょ?
- 女
- いつ始まったのか知らないんですけどね。
- 男
- あなたは何もしないんですか?
- 女
- 足から根っこが生えて動けないんです。
- 男
- 根っこ?
- 女
- 見てみます?
- 男
- いえ……。
- 女
- おおきな湖が見えるでしょう?
- 男
- ええ。
- 女
- あの下に、私が昔、住んでいた街が沈んでいるんです。
- 男
- へぇ。
- 女
- 神様がね、怒って沈めてしまったんですよ。
- 男
- 神様がねぇ……。
- 女
- 私だけが、その薄汚いじいさんに、安いお酒を一杯恵んであげたんです。
- 男
- それで、生き残ったんですか?
- 女
- ええ。みんな、沈んでしまったのにね。
- 男
- ひどい神様もいたもんだ。
- 女
- 多分、私、もう死んでるんですよ。
- 男
- 元気そうに見えますよ。
- 女
- だって足から根っこが生えてきたんですよ。
- 男
- 切ればいいじゃないですか。
- 女
- 薄汚いじいさんが、私に約束してくれたんです。いつか、生涯をともにする伴侶が現れたなら、決して寂しい思いをしないように、死ぬときは二人で一緒に死ねるようにしてやろうって。
- 男
- へぇ。それはいいですね。
- 女
- この小高い丘の上で、きっと、こんな秋晴れの日に、私と、その伴侶は足元からじんわりと木になっていくんです。最後の挨拶をゆっくりと交わして、最後の感謝をささげあって、二人で一本の絡み合った樹になるんですよ。
- 男
- 神様がそう言ったんですか?
- 女
- いいえ。でも、私の足から根っこが生えてきたときに分かったんです。私は、私の知らない始まりから、ずっと終わりに向かいつづけていたんだって。本当はもう終わらなくちゃいけないんですけど。
- 男
- どうして?まだ始まったばかりですよ?
- 女
- だって、足から根っこが生えてきたんですもの。だから、もうきっと私は終わらなくてはいけないのに、まだ伴侶が現れないから、私は、足を地面に固く縫い付けられたまま、ここで待っているんです。
- 男
- 伴侶が現れたら、どうするんです?
- 女
- 二人で樹になるんですよ。そして、ずっとこの小高い丘にひっそりと生い茂っているんです。あなたが、私の伴侶ですか?
- 男
- いいえ、違うと思います。
- 女
- そうですか。
- 男
- 私は行きます。私は、まだ始まったばかりですから。
- 女
- そうですか。では、もしもどこかで、足から根っこを生やした男の人に出会ったら伝えてください。大きな湖のほとりの小高い丘の上で、足から根っこを生やした女が待っていたと。
- 男
- ええ。きっと伝えます。さようなら。
- 女
- さようなら。
- ラジオノイズ。
- 声
- 樹はなにも言わない。嬉しくても、腹立たしくても、悲しくても、たとえ、今まさに切り倒されようとしていても、なんの不平も不満も言わない。ただ、命の音だけが、 私の耳から身体に染み込んでくる。命には偽りがない。
- ラジオノイズ、周波数の合うときの音がして、やむ。
- [ 了 ]