その頃うさぎは走っていた 長い耳をぴんとたてて あとあしで地面を蹴って
風の中を走った
雪の上を走った
ぬかるみの中を走った
どこまでもどこまでも走った
うさぎ
行かなくちゃ。もっともっと遠くまで。もっともっと、もっともっと遠くまで。
雨をよけて走った
川に沿って走った
地平線を越えて走った
地球を何回りもして 小さな足跡をたくさん残して 空気は冷たく 地面は固かった 鼻先をかすめていくやわらかい風だけを頼りに 彼は走った たくさんのたくさんのものたちが彼の横を通り過ぎていった 泥だらけの足の裏には血がにじみ 地面を点々と染めた彼は走り続けた
そのうち
わからなくなってきた
道を求めて走っているのか 自分自身が道なのか そしてそれはきっとどっちでもいいことだった おなじことだった 一本の道は 世界を貫いてどこまでも果てしなく続いてそしてそれは彼自身だった
うさぎ
いったい・・・僕はどこまで来たんだろう。この道は、どこまで続いているんだろう。
考えてもわからなかった そこはいつも長く険しい「道の途中」だった 後ろ足で地面を蹴って風の中を走り続けた・・・・

*********

その頃うさぎは月を見ていた 地面にあいた大きな深い穴の中で
暗くて冷たい土の中で
下から見上げる穴は高くそびえたっていた 超えることのできない 高くて湿った壁があった 壁の上に空があった
空の向こうに月が見えた

まんまるな月
だんだんにへこんでいくいびつな形の月
弓の形をした薄くて鋭い月
見えない月
真昼の空に浮かぶ日の影ぼうしのような月

見えるものは穴の壁と空だけだった
だから彼女は月を見ていた
いつもいつも月を見ていた
穴があくほど 毎日毎日月を見ていた
見ることは向かうことだった
うさぎ
行かなくちゃ。もっともっと遠くまで。もっともっと、もっともっと遠くまで。
毎日月に向かううちわからなくなってきた
ここは穴の中なのか 空の向こうの月なのか そしてそれはきっとどっちでもいいことだった おなじことだった 世界はまんまるな穴の外にどこまでも広がっていて 先には銀色に光る月があった そしてそれは彼女自身だった
うさぎ
あたしは、どこから来たんだろう。いつからここにいるんだろう?
考えてもわからなかった
土の壁に囲まれた暗い穴の中では世界のすべてが空と月だった 目に入る砂を払ってまるい銀の月を見上げた・・。

**************

ずっと昔彼らは「あの場所」を出て「遠く」へ向かった
ひとりぼっちで遠くへ向かった
逃げなければいけなかった
そこではないどこかへ
そこではないどこかへ
もっともっと遠くへ

世界を目指して彼らは逃げた
彼らは逃げ続け そしていつしか世界になった なので世界を背負ったまま彼らは逃げ続けた
どこまでも どこからも

それから長い時間が過ぎて ずうっと先のある寒い日にふたつの世界がすれ違った どこからも遠くにあって どこからでも見える場所で 穴の中のうさぎと道の途中のうさぎは吹雪の中ですれ違った 彼らははじめて立ち止まり世界の向こうへ目を凝らした 世界の向こう側に雪の中に揺れる長い耳がかすかに見えたような気がした自分の長い耳もやっぱり風の中でぶるんぶるんと揺れていた 彼らは同時に「あれ?」と思った
そして
けっこう遠くまで来たのかもしれないな と思った