セミの鳴き声が聞こえてくる
来園者たちの喧騒も聞こえてくる
植物園内をナビゲートするカヒナ
カヒナ
さて、こちらに立っているアカマツは樹齢140年と言われ、当植物園の最大の目玉となっております。アカマツはマツ科に所属する…。
カヒナ
あの日、私はいつものように園内のナビゲーションを務めていました。
そして最後のお客さんを送り出した私の目の前に、彼は立っていたのです。
袴にわらじ、腰には脇差しという格好で。
ひぐらしの鳴き声が聞こえてくる
彦太
ここは……?
カヒナ
え?
彦太
こ、ここはどこじゃ!?俺は何でこんなところにおる!
カヒナ
え?え?
彦太
んんん!こ、こんなことしてる場合ではない!!明日は幕府との決戦なんじゃ!
カヒナ
幕府?
彦太
そうじゃ!俺を帰してくれ!俺を帰してくれ!頼む!!頼む!!
始めは半信半疑だった私も、肩を揺する彼の真剣な眼差しを見ているうちに思わずこう答えていたのです。
…あの、行くアテないんだったら、よかったらうちに!!
彦太
(エコー)カヒナ殿~まっこといい湯じゃ。ほんにかたじけない。
カヒナ
泊めるなんてちょっと大胆すぎたかしら。
彦太
(エコー)しかし奇妙な風呂じゃのぉ、厠と隣り合わせじゃ!
カヒナ
ユニットバスなんだけど…。
彦太
(エコー)やや!なんじゃこのフンドシは!短すぎて巻き付けられんわい!
カヒナ
コンビニで買ったパンツ!!
カヒナ
こうして彦太と名乗る幕末の武士との、奇妙な共同生活が始まったのです。
彦太
カヒナ殿、これはなんじゃ?
カヒナ
信号機。青が進めで赤が止まれ。
彦太
じゃあ、あの巨大なはた織り機はなんじゃ。
カヒナ
観覧車。遠くまで見渡せるの!!
彦太
(車の音)やや!ててて、鉄の猪じゃ!!
カヒナ
こっちではね、みんなあれに乗って移動するんだ。
彦太
なるほどな。(カヒナの携帯が鳴る)うわ!この脇差しは音が鳴りおる!
カヒナ
携帯電話!
彦太
ふーん、ほんとに変わった世界じゃなぁ。
ふたり何となく笑う
カヒナ
この瞬間が永遠に続けばいい、しかしそれは儚い夢でした。遠くを見つめる瞳にはきっと、彼の作ろうとした新しい時代が映っていたに違いありません。
やはり彦太さんは幕末の武士だったのです。
セミの鳴き声が聞こえてくる
彦太
ふぅ。植物園とやらも、ひと回りすれば結構大変なもんじゃの。
カヒナ
こら!くたばってる場合じゃないぞ。
彦太
いてっ!!松笠なんぞ投げるでない!!
カヒナ
弱音吐いてたら新しい時代なんて作れないわよ。
彦太
……?
カヒナ
私ね、静かに、でも力強く生きてる、このアカマツが大好きなんだ。だから最後にここを歩きたかった。
彦太
…カヒナ殿?
カヒナ
やあねぇ、な、泣いてなんかないんだから。
彦太
……あぁ、まっこと立派なアカマツじゃ!!よおぉし、今宵は宴じゃ!酔い潰れるまで宴じゃ!!
カヒナ
…うん。
ふたりの笑い声が夕暮れに響く
セミの声が少し大きくなる
カヒナ
月明かりに照らされた夜は、静かに、そしてゆっくりと更けていきました。
次の日の夕暮れ、彦太さんは七日ぶりに袴の袖に腕を通したのです。
遠くでひぐらしの鳴く声が聞こえる
彦太
カヒナ殿、頼みがある。
カヒナ
頼み?
彦太
俺が帰ったらこの松の下を掘ってくれんか。
カヒナ
ここ?
彦太
ああ。
カヒナ
わかった。…で、でも本当なの?勝利を願って心を無にすれば帰れるなんて。
彦太
何度も言わすな。ここへ来た時もそうじゃった。必ず帰れる、俺はそう信じとる。
カヒナ
こ、心ん中、真っ白にするんなら、私なんて邪魔なんじゃない?
彦太
……。
カヒナ
行くね。
彦太
……バカじゃ。おまえはほんと大バカじゃ!
カヒナ
…え?
ひぐらしの鳴き声が大きくなる
彦太
カヒナ殿、ありがとう。
彦太がカヒナを抱きしめたのかそれともキスをしたのか
それは二人にしかわからない
一陣の風が吹き抜ける
カヒナ
気が付くと、ただアカマツが風に揺れているだけでした。
古びた箱を取り出すと、そこには彦太さんからの手紙が入っていたのです。
彦太
『カヒナ殿。
夢か幻か、そんな七日という時が過ぎ、カヒナ殿がまことにこの大地にいらっしゃったのかどうかさえわからなくなるくらい、こちらの夜は静かで、ただ星が瞬いているだけであります。
未来という想像もつかない世界でそれがしの面倒をみてくれたこと、本当に感謝の念でいっぱいです。
このまま平成の世でカヒナ殿と暮らしていけたら、幾度も幾度もそう考えました。しかしそれがしは武士であります。新しい時代を切り開くために生まれた武士であります。それがしは戦わなければなりません。
今宵ここに松笠を植えました。カヒナ殿にぶつけられたあの松笠です。カヒナ殿、幸せになってください。必ず、必ず、幸せになってください。あなたの時代を懸命に生きてください。
明日は幕府との決戦です。……そちらはもう、セミの季節なんでしょうな。』
セミの鳴き声が聞こえてくる
カヒナ
彦太さん……。
カヒナずっとアカマツを見つめている