- 女
- 花火の季節は終わった。中秋の名月にはまだ早い。
9月の初めの夜の空はどうにも中途半端で、たいくつだ。
夜の風は肌にちょうど気持ちいい温度なんだけど、日中が前ほど暑くなくなったからか、そんなに感動するほど「涼しい」訳でもない。
夏休みも終わってしまった。出かけるあてもお金もない。
それでも週末はとりあえず毎週やってくる。
- 外からは虫の声
時折風に吹かれて風鈴がなる
男はタバコを片手に、ベランダの縁に腰かけている
- 女
- なにしてんの?
- 男
- え?
- 女
- 蚊がすごいじゃない。うわ…。
- 男
- そう?
- 女
- …閉めてよ。網戸!
- 男
- ああ…。うん…。
- 女
- 何見てんの?
- 男
- 月。
- 女
- 月ー?
- 男
- うん。
- 女
- 月…?
- 女、空を探す
- 男
- ・・・。
- 女
- 真っ暗じゃない。
- 男
- うん。
- 女
- 何見てんの?
- 男
- 月。
- 女
- …?
- 男
- 月食。
- 女
- 月食?
- 男
- 知らない?今夜、皆既月食なんだよ。
- 女
- …………ふうん。
- 女、一緒に空を見る
- 女
- ……何見てんの?
- 男
- だから、月食。
- 女
- こんな真っ暗なのに?
- 男
- 皆既月食だから。
- 女
- …。
- 男
- 全部隠れるんだ。
- 女
- …。
- 男
- なかなかないんだよ。そういうのは。
- 女
- …。
- 男
- な、ほんとに真っ暗だろ。
- 女
- …うん。暗い。
- 男
- な。ほんとに何も見えないだろ。
- 女
- …うん。見えない。
- 男
- すごいよなぁ。
- 女
- …。
- ふたり、並んで月食を見る
- 女
- ねぇ。
- 男
- 何?
- 女
- よく見るの?
- 男
- うん?
- 女
- 月食。
- 男
- 今日みたいなのは普通は見られない。
- 女
- 普通に見られる方のはよく見るの?
- 男
- 自慢じゃないけど、小学生の時から欠かさず見てる。
- 女
- 知らなかった。
- 男
- そう?
- 女
- 実は天文マニアなの?
- 男
- 月食マニアかな。他の星は興味ない。
- 女
- ふうん。
- 男
- なんかさ、大きな天体の動きが肉眼で確かめられるって、わくわくしない?
宇宙の神秘を感じませんか?
- 女
- そうかなぁ。
- 男
- わかんないかなぁ。
- 女
- いつ終わるの?
- 男
- 明日の朝。
- 女
- 朝まで見てるの?!
- 男
- うん。
- 女
- ここで?
蚊が入るのに?
- 男
- ……蚊????!!!!
- 男、変な顔をする
- 男
- …今夜こそ、最後まで見るんだ。
- 女
- え?
- 男
- 欠けるところか戻るところか、いつもどっちか見損ねるんだよ。
- 女
- …ふぅん。
- 男
- 今夜は皆既月食だ。
完全に消えて完全に戻るまで、絶対に見届けてやる。
これまでの無念を一気に晴らすんだ。
- 女
- …はあ?
- 女
- テコでも動きそうにないので、私も横に並んで、真っ暗な空をベランダから二人で眺めた。
月はなかなかもとの形にならなかった。
夜はだんだん更けていく。
なんだか。
何をしているのか、だんだんわからなくなってきた。
この人にはわかってるんだろうかと、隣を見ると、彼は隣でうとうとしていた。
この時間が永遠に続くような気がした。
いつまでも、空は闇に包まれたままで、見るものもない広いだけの空をもてあましながら、たいくつに耐えきれずに眠り込んでしまうような気がした。
本当は、闇の向こう側で空はきちんと計画を遂行しているのに。
この平凡で退屈な闇の前で。
本当のことはとても不思議でおかしな事に思えた。
- 女
- 月はさっきまでたしかに丸かったし、
これからまた、
たしかに元通り丸くなるのに。
- 虫の声
風鈴の音
- 了