- 女が歯を磨いている。
ワンルームマンションの玄関の鍵が開く音がする
構わず磨き続ける女
ユニットバスへ男が入ってくる
- 男
- ただいま。
- 女
- (口の中の歯磨き粉を唾液が落ちないように気にしながら)ちょっと、
- 男
- ・・・。
- 女
- やめてよ。
- 男
- え?
- 女
- (唾液を少し吐いて)やめてって。
- 男
- なにが、
- 女
- どうして入って来るのよ。
- 男
- 歯磨こうかと、
- 女
- 今、私が磨いてるでしょう。
- 男
- ああ、だから、
- 女
- だから、入ってこないでよ。
- 男
- だって・・だから磨きたくなったんだよ。
- 女
- ・・・・。
- 女、続けて歯を磨く
- 男
- あれ?俺の歯ブラシ・・・なあ、俺の、
- 女、うがいをする
- 男
- どこやったんだよ。なあ、おい。
- 女
- (浴用スポンジの隣から出して)これ?
- 男
- ・・・・・。
- 女
- もう必要ないと思って排水溝洗うのに使っちゃった。
- 男
- ・・・良かったね。
- 女
- え?
- 男
- きれいになったんだろ。
- 女
- ・・・ねえ、どうしてこっち来るのよ。やめてって前に言ったでしょう。
- 男
- いいだろ、一緒でも。
- 女、男を無視して、コップや歯ブラシを洗い出す
- 男
- 外でも磨くもんだろ?
- 女
- あんた、外で歯なんて磨くの?馬鹿じゃないの?
- 男
- 普通だって。
- 女
- 何の目的でわざわざ靴履いて寒いとこに磨きに行くのよ。
- 男
- は?
- 女
- 信じられない。
- 男
- 外でなんか磨かないよ。洗面所の外っていうだけで。部屋ん中だって暖かい、
- 女
- 分かってるわよ。
- 男
- ・・・。
- 女
- どいて。
- 男
- ・・・お前なあ、いい加減にしろよ。
- 女
- 歯磨きたいんでしょ?さっさと磨けば?
- 男
- ああ、磨くよ。排水溝みたいにピカピカに。
- 男はおんなの使っていた歯ブラシを取る
- 女
- あ、ちょっと、それ私の・・・。病気なんて簡単に移るんだよ。
- 男
- 病気って俺が持ってた病気のことか?
- 男が歯を磨く音
- 女
- もういい。
- 女、部屋に戻る
- 女
- 煙草、もらうわよ。
- 女
- まずっ。
- 男、磨きながら部屋に入ってくる
- 男
- 歯磨いてすぐ吸うからだよ。
- 女
- こっち来ないでよ。
- 男
- 最後の一本だったのに。
- 女
- 買いに行けばいいじゃない。もう5時なんだから。
- 男
- お前が行けよ。
- 女
- 喋んないで。こぼれるでしょう。
- 男
- 神経質だなあ。
- 磨くことに専念する男
- 女
- 煙草、メンソールにしてよ。
- 男
- んーん、(嫌だ)
- 女
- マルボロとかあるじゃない。
- 男
- んんん、(そんな)
- 女
- やだちょっと、垂れてる。
- 男、顎に垂れた唾液をぬぎいながら、洗面所に戻る
- 女
- どうせ、そんな女の煙草が吸えるかって言いたいんでしょう。こんなきついのあなたとおじいちゃんぐらいしか吸わないわよ。
- うがいをする音が聞える
- 男
- だったら買ってこいよ。自分の好きなメンソールにすればいいだろ。(といいながら戻ってくる)
- 女、半分も吸わずに消す
- 女
- じゃあ、キー貸して。
- 男
- え?
- 女
- いいから、貸して。
- 男
- 車?
- 女
- 他に何があるのよ。
- 男
- 近くだろ。
- 女
- いいでしょ。お風呂上りなの。それに一人で吸いたいのよ。
- 男
- 別に、わざわざ車で吸わなくてもいいだろ。
- 女
- わざわざ吸いたいの。
- 男
- 寒いだろ、車まで。
- 女
- さっきまであんたが乗ってたんだから、中は暖かいでしょう。
- 男
- 歩いた方が暖まるだろう。それに、最近お前運動不足だって言ってたじゃないか。
- 女
- 明日着るコート、後ろの席に置きっぱなしだし。
- 男
- ああ・・・あれ、トランクに入れてる。
- 女
- ・・・。
- 男
- 持ってこれば良かった?
- 女
- なんでわざわざトランクなんかに入れるのよ。
- 男
- 大事なものはしまっとかなきゃ。
- 女
- 大事なものねえ・・・ねえ、キー貸して。
- 男、ポケットからキーを取り出す
- 男
- 煙草買って、コート取ったらすぐ帰ってこいよ。
- 女
- 帰ってこいって、ここは私の家なのよ。
- 男
- だから、早く帰れって言ってるんじゃないか。
- 女
- 自分家に帰れってなんで人に言われなきゃなんないの。
- 男
- わかったよ。帰ってきたくないなら、いいよ、こなくて。
- 女
- 車で煙草吸われるのが嫌なんでしょう。
- 男
- いつも吸ってるじゃないか。
- 女
- 忘れてたことでも思い出したの?
- 男
- ・・・・・何を、
- 女
- 灰皿。メンソールじゃない1mgの煙草。
- 男
- ・・・・。
- 女
- 飲み会、彼女も一緒だったんでしょう?
- 男
- ・・・だから何、
- 女
- こんな朝方になったんだってこと。
- 男
- 謝ってほしいのか?
- 女、キーを放り投げる
- 女
- やめた。
- 男
- ・・・・。
- 女
- 助手席に温もりがあったりしたら、
- 男
- ないよ。
- 女
- 送ったんでしょう、家まで。
- 男
- もう残ってるわけがないだろ。
- 女
- 車の中でキスしたりイチャイチャしてたんでしょう。
- 男
- キスなんかしてないって。
- 女
- 嘘つき。
- 男
- どうして嘘なんだよ。
- 女
- だったら、帰ってきてすぐ歯なんて磨くなよな。
- 男
- それは酒のみ過ぎで気持ち悪かったから、
- 女
- 普段は歯磨き嫌いな癖に。妙なとこだけ律儀なんだから。
- 男
- ・・・。
- 女
- 黙んないで。
- 男
- 飽きれてるんだよ。
- 女
- ・・・交換しよう。
- 男
- ・・・・。
- 女
- この車のキーと。
- 男
- なに?
- 女
- 何と交換してくれる?
- 男
- ・・・いいよ。俺が買ってくればいいんだろ、お前の分も。
- 女
- 嫌。
- 男
- ・・・じゃあ、
- 女
- ここの鍵と。あなたが持ってる私の鍵。
- 男
- ・・・・どういう意味?
- 女
- きつい煙草は匂いだけでクラクラするのよ。
- 男
- だから?
- 女
- もう、あなたの口にはついて行けない。
- 沈黙
- 男
- 分かった。
- 男、ポケットから部屋の鍵を出し、テーブルの上に置く。女、車のキーを男に渡す。
男、出ていく。
部屋に取り残された女と鍵。
女は引出しから煙草を取り出す。メンソールではない先程と同じ銘柄の煙草。
火をつける
- 女
- クラクラする・・・ねえ、キスしてよ。
- 煙草をゆっくりと味わって吸う
2台の車のクラクションが甲高く響く。急ブレーキ。衝突音。人を乗せたまま大破した車体。地面から離された車輪が事故の悲惨さを物語る。
救急車が近くで止まる。
- 女
- ねえ、キスしてよ。アナタの煙草。アナタの匂い。アナタの口。
- 女、空になった煙草の箱を握りつぶす
- 女
- これで最後。禁煙しなきゃ。
- 女、煙草の煙にむせる。滲んだ目を閉じて、最後の煙草に浸る。
霊柩車が式場を離れる時に鳴らすようなクラクションが聞こえる。
- おしまい