- 外には強い風が吹いている。
からん。
重いドアを開けて女が入ってくる。
店の中は暖かいが人気がない。
薄暗い中でコーヒーを沸かす音がこぽこぽと聞えている。
- 女
- ・・・あ。もう閉まっちゃいました?
- マスター
- ・・・いいえ。
- 女
- あの・・・。
- マスター
- 明日からなんですよ。今日はまだ準備中。
- 女
- あら・・・。そうなんですか、すみません・・・。
- マスター
- 雪ですか?すごい風ですね。
- 女
- ええ。
- マスター
- すきまから風が入るんです。そこは寒いでしょう。
- 女
- あ・・・。
- マスター
- 奥へどうぞ。珈琲しかできませんけど。
- 女
- え?でも・・・。
- マスター
- よかったら一杯、飲んでってください。
- 女
- ・・・。
- マスター
- お客さん第一号には、コーヒーを1杯サービスすることにしてるんです。
- 女
- ・・・。
- マスター
- あなたがこの店の最初のお客です。
- 女
- ・・・いいんですか?
- マスター
- お好きなカップで1杯。
- 女
- すみません。
- 女は椅子に腰掛ける。目の前のカウンターには大きさのまちまちな珈琲カップがならんでいる。
- 女
- どれでもいいんですか?
- マスター
- ええ。
- 女
- わあ。たくさん・・・。迷っちゃいますね・・・。
- マスター
- みなさん、そうおっしゃいます。
- 女
- ・・・。
- マスター
- ですけど・・・。
- 女
- ・・・え?
- マスター
- いえ。さあ。どれにします?
- 女
- どのカップがおすすめですか?
- マスター
- あなたの好きなのにしてください。私には選べません。
- 女
- ?
- マスター
- 初めてのお客様のことはいつまでも覚えています。そのとき選んだカップの色も・・・。ですから、どのカップを見ても誰かのことを思い出す・・・。それを他のひとにすすめることはできません。ひとつを選んで手に取ることもできません。
- 女
- ・・・・・。
- マスター
- あなたが選んで下さい。私はそのカップに、あなたのための珈琲を注ぎます。それはあなたの珈琲で、そしてそれはその間あなたのためのカップです。
- 女
- お客の選んだカップをみんな覚えてるんですか?
- マスター
- ええ。みんな。
- 女、目の前の大きな白いカップを手に取る。
- 女
- ・・・これにします。
- マスター
- はい。
- 女の選んだカップをとりあげ、マスターは珈琲を立て始める。
- 女
- お店は、これまでにも・・・?
- マスター
- (笑っている)ええ。これまでもう数え切れないほどの店を開けたり閉めたり。はじめてのお客様はその度にひとりずつ・・・。
- 女
- これまでは、どんなお店を?
- マスター
- どんなって、珈琲の店・・・。
- 女
- 珈琲の店・・・。
- マスター
- ええ。同じような。
- 女
- ・・・同じような・・・。
- マスター
- いろんな町を転々としましたけど、珈琲の店しかできませんでした。
- 女
- そうなんです。(なんだか府に落ちない)
- 珈琲が沸いた。マスターは女の選んだカップの中に珈琲をそそぎ込む・・・。
- マスター
- はい。どうぞ。
- 女
- ・・・すみません。
- しばらく
女は黙って珈琲を飲んでいる
マスターは女に背中を向け、洗い物をはじめた
店の中は水の音、食器の触れ合う音、音楽だけがしずかにひびく
やがて女がひとりごとのように口を開いた・・・
- 女
- はじめてのお客がくるのはきっといつも開店の前の日。
- マスター
- ・・・?
- 女
- マスターは店に入ってきた客にカップを選ばせて、入れ立ての珈琲を1杯注ぐ・・・。
- マスター
- ・・・。
- 女
- 来るか来ないかわからないお客をそうやって待っている。
- マスター
- ・・・?
- 女
- 看板を出さないで。でも窓の灯りはつけたまま、珈琲の香りを立てて・・・。
- マスター
- ・・・。
- 女
- 正確に言うと待ってるわけじゃない。だって店はまだ開いていないし、お客に出すメニューもそろっていない。
- マスター
- ・・・。
- 女
- そんなところへ「もしも」お客が入ってきたとしたら、それは思いがけないお客で、来るはずのなかったお客で、この店のほんとうの客じゃない。
- マスター
- ・・・。
- 女
- そのお客に、1杯目の珈琲をサービスする・・・。
- マスター
- ・・・。
- 女
- 苦みの利いた、こくのある、おいしい珈琲をサービスする・・・。
- 水の音が止まる。マスターが洗い物を終え、カウンターに戻って来る、
- マスター
- ・・・わたしの店のことですか?
- 女
- いいえ。私のこと。私がもし珈琲のお店をもってたらやってみたいことです。
- マスター
- ・・・?
- 間
- 女
- 新しいお店を開ける前って・・・。
- マスター
- はい?
- 女
- ドキドキしますか?
- マスター
- ・・・ええ。
- 女
- さっき終わったはずのものだってたくさんあるのに、何もかもが今始まったばかりのような気持ちになってそわそわしますか?
- マスター
- ・・・ええ。
- 女
- どこへ行っちゃうんでしょうね。
- マスター
- ・・・え?
- 女
- きっとずっといつまでもそのままそこに止まっていて。
- マスター
- ・・・?
- しばらく
女はコーヒーを飲み干し、立ち上がる。
- 女
- ごちそうさまでした。
- マスター
- また、飲みに来て下さい。苦い珈琲。
- 女
- ええ・・・でも・・・残念ですけど・・・。
- マスター
- ?
- 女
- ここへはもう来ません。
- マスター
- ・・・。
- 女
- 引っ越すんです。明日。
- マスター
- そうなんですか。
- 女
- ええ。やっと。
- マスター
- やっと?
- 女
- じゃあ。さようなら。
- マスター
- ・・・さようなら。気を付けて。
- 女
- ありがとう。
- 女は最後に振り返り・・・
- 女
- ・・・あの・・・私・・・。
- マスター
- ・・・このいちばん大きな白いカップでしたね。
- 女
- ・・・ええ。
- からん、ドアをあけ、女が出ていった
外にはまだ、強い風が吹いている・・・
- おわり