- 登場人物
- 男(テル)
女(ヤエ)
- 夜。
砂浜を歩く二人。
穏やかな波音。
上弦の月が柔らかに光る。
- 女
- 夜の海ってさ…。
- 男
- 何。
- 女
- …なんだか大きな生き物みたいじゃない。
- 男
- そうかな。
- 女
- 夜にね、母さんが、泳ぎに行こうっていうの。
- 男
- えっ今晩?
- 女
- ううん、小さい頃。
- 男
- そうしてまた?
- 女
- …昼間だと、日焼けするから。
- 男
- だからって夜、泳ぎに行くの?
- 女
- 本当はね…。
- 男
- 何。
- 女
- ううん、なんでもない。
- 男
- ん?
- 女
- 昼間はとてもきれいなのよ。ブルーっていうよりエメラルドグリーンっていうか。
- 男
- 今は黒いだけだね。
- 女
- うん。分かるかな、あの辺り、大きな岩があるのよ。
- 男
- うーん、なんとなく。
- 女
- あの岩から向こうからは、泳いじゃいけないの。
- 男
- なんで。
- 女
- 波がきついから。
- 男
- へーえ。
- 女
- 事故もあったし。
- 男
- そうなんだ。もうちょっと時期が早けりゃな…。
- 女
- 泳げなくて残念?
- 男
- いや、まあ、お互い、8月は忙しかったからね。
- 女
- テル君はあったわよね、お盆休み。
- 男
- まあね、ヤエさん、忙しかったし。
- 女
- うん。…ごめんね。
- 男
- いやいいって、来年もあるんだし。
- 女
- 来年か。
- 二人は立ち止まる。
- 男
- ここらでいいかな?
- 女
- そうね、民家もないし。
- 男
- 行く夏を惜しんで、盛大にいきますか。
- 女
- 駄目よ、真夜中なんだから地味なのだけ。
- 男
- 真夜中ってまだ11時だよ。
- 女
- この辺(あたり)じゃ、真夜中なの。
- 男
- 打ち上げ花火駄目?
- 女
- 駄目。
- 男
- ロケット花火も…。
- 女
- 駄目。明日にしましょ。今夜はね…これ、線香花火。
- 男
- (不満そうに)はーい。
- 女
- …私すきよ。そういう顔。
- 男
- そういう顔ってどういう顔?
- 女
- 暗くて、あんまり見えないけど、多分。
- 男
- また、そうやって大人ぶる。
- 女
- 大人だもの。
- 男
- 3つしか違わないでしょ。
- 女
- 折角、好きって言ってあげたのに。
- 男
- それはそれは、どうもありがと。(嫌みっぽく)
- 女
- テル君、ライターかして。
- 男
- つけたげるよ。待ってね。
- ライターを付けようとする男。
- 男
- あれ…風が…なんで、つかない?
- 女
- かしてみ。
- 男
- ん。
- 女、器用に風をよけ、線香花火に火をつける。
- 女
- ほら付いた。テル君この花火で付けなよ。
- 女、火のついた線香花火を差し出す。
- 男
- いいって、自分で付けるから。
- 女
- はいはい。
- 男
- ライターかして。
- 女
- はい。しばし花火を見つめる二人。
- 女
- きれいだね。
- 男
- ん、うん。
- 女
- 私ね、今でも浮輪がないと泳げないの。
- 男、少し笑う。
- 女
- 笑ったな。
- 男
- 海のそばで育ったのに。
- 女
- うん。
- 男
- 俺、水泳部。
- 女
- だったよね。確か
- 男
- スイミング教室で教えてたし。
- 女
- …一度溺れかけてから。
- 男
- そうなんだ。
- 女
- 母さんと泳いでる時にね。
- 男
- じゃあ夜?
- 女
- うん、夜の海で。
- 男
- それって、かなり怖いよな。
- 女
- 違うの。
- 男
- 何が?
- 女
- 溺れたから怖いんじゃなくて…。
- 男
- ヤエさん、花火。球(たま)が、球、落っこちる。
- 線香花火の火球が落ちる。
- 男
- あーあ。
- 女
- (平然と)落ちちゃったね。
- 男
- だってヤエさん落ちないように工夫しないんだもん。
- 女
- 工夫って?
- 男
- 微妙に、こう、斜めにして、バランスをとるんだって。
- 女
- そんなことして、落ちてしまったらセツナイじゃない。
- 男
- なんにもしないで落ちるのは、もっとセツナイじゃない。
- 女
- じゃあ、テル君やって。
- 男
- やりますよ。やりますとも。
- ライターを擦る音。
- 女
- (笑って)ムキになっちゃって。
- 男
- …(舌打ちして)なんで、つかないかな。
- 女
- あの岩から向こうにね、行った事があるの。
- 男
- え。
- 女
- 母さんがね、ズンズン沖へ泳いでいっちゃうから、追っかけてったの。岩から向こうは温度が違ってた、ヒヤッとして、危ないぞ、危ないぞってどっかで思いながら、必死に泳いでたら、いきなり体が動かなくなっちゃって、私…。
- 男
- 泳ぎ、教えてあげますから、帰ったら行きましょう、プール。
- 女
- 快感?
- 男
- へ?
- 女
- 気持ちがよかったの。ああこのまま、私は海に食べられちゃうんだなって。体が溶けてくみたいな。
- 男
- 気持ち、良かったんだ。
- 女
- とってもね。
- 男
- じゃ、本当は泳げるんだ。
- 女
- どうかな。それから、浮輪を手放さないようにしてるから。
- 男
- …ウミニタベラレナイヨウニ。
- 女
- …うん。…気づくとね、母さんが、私をつかまえてた。
ギュッて掴んで、痛いくらいに掴んで、離さなかった。
それから、黙ったまんま、家に帰った。
- 男
- そう。
- 女
- あれ以来、母さんは泳がなくなった。
- 男
- …あのさ。
- 女
- なに?
- 男
- 俺は、なれないかな。
- 女
- ん?
- 男
- ヤエさんの浮輪に。
- 女
- (笑う)
- 男
- あーあ、、つまんないこと言っちゃった俺。
- ライターをもてあそぶ男。
- 女
- 来年は…。
- 男
- え…あっ、ついた。花火、花火。
- 男、線香花火をさがし、火を付ける。
- 女
- (呟くように)一緒に泳げたらいいな。
- 燃え始める線香花火。
- 男
- 今なんか言った?
- 女
- ううん、なんでもない。
- 男
- (得意げに笑って)聞こえたもんね。
- 女
- 私もしようっと花火。
- 男
- うん。
- おわり